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阿部浩之

Jリーガーたちの原点 「阿部浩之(川崎フロンターレ)」

リフティングの練習をひたすらした小学生時代

阿部浩之

170cmと小柄でありながら、巧みな技術やシュート力を武器に活躍する川崎フロンターレの阿部浩之。大学卒業後、ガンバ大阪に加入し、プロへの道を切り開いた阿部だが、いわゆるサッカーエリートではない。しかし、プロになってからの活躍は目覚ましく、ガンバ大阪では、タイトル獲得に大きく貢献し、Jリーグ優秀選手賞を受賞。2017年には、日本代表にも初選出され、デビューも飾った。川崎フロンターレに移籍後も、精度の高いシュートでチームに貢献している。

そんな阿部がサッカーを始めたのは5歳の頃。「4つ上の兄がサッカーをやっていたので、その影響でやりだしたっていう、よくありがちな感じです(笑)。兄の学年の人たちと一緒にやると、自分より高いレベルでできたので、楽しかったですね」。小学1年生になり所属したのは、地元・奈良県のエントラーダSC。同級生が入っていたからという理由で入部したというが、偶然にも県内屈指の強豪チームだった。阿部の足下の技術の原型は、このチームでの練習で形作られたといってもいいだろう。「とにかくリフティングの練習をたくさんやりました。インステップ、インサイド、アウトサイド、もも、ヘディングを学年×10回やるんです。例えば3年生なら各30回できないと駄目みたいな。でも、チーム全員ができていたので、めちゃくちゃリフティングが上手いチームだったと思います」。その回数は、3年生の時に100回は優に超し、6年生になると8,000回もできたというから驚きだ。また、当時から右利きではあるものの、左足でもシュートを決めていたという。

リフティングの他によく行っていた練習は、素走りだったと振り返る。「試合に負けたり、失点すると、走らなければいけなくて、何かと走ってましたね(笑)。ただ、今思うと、監督は僕らに“勝負にこだわる”ということを植え付けたかったんじゃないかなって。厳しい監督ではありましたけど、愛があって、サッカーをより好きにさせてくれました」。考えてプレーするというのがチームカラーであり、監督も決して口うるさく言うことはなかったため、この頃から自分に何が必要で、監督が何を求めているかも考えるようになったという。

いつも試合を観に来てくれた両親。何も言わずにサポートしてくれた

チーム全体の技術レベルは高く、且つ阿部の学年には上手い選手が集まったことから、JFAバーモントカップ全日本U-12フットサル選手権大会では全国の舞台も経験した。「バーモントカップでは、たまたまいい感じで上がっていけて、全国3位になれたんです。全国大会でレベルの高い選手を相手にしたことで、サッカーが楽しいだけでなく、もっともっと上手くなりたいという気持ちが芽生えました」。惜しくも全日本少年サッカー大会(現、JFA全日本U-12サッカー選手権大会)では、奈良県の決勝大会で負けて2位に終わり、その悔しさは、今でも忘れていないという。

サッカーに夢中になる阿部を常に温かく見守ってくれていたのは、両親だった。「両親はとくにサッカーが好きというわけではなかったのですが、試合はほとんど観に来てくれました。何も口出しせずにサポートしてくれたからこそ、好きなようにサッカーができたっていうのはありますね」

いつでも壁にあたっているから、向上心につながっている

阿部浩之
「ずば抜けたことがないから、いつも壁にあたっている。だからこそ、もっと上手くなりたい、負けたくないという気持ちがあった」

中学ではよりレベルの高いチームでサッカーがしたい― そう思った阿部が選んだのは、当時、県内一の強豪だった高田FC(現、ディアブロッサ高田FC)のジュニアユースだった。トップクラスのクラブゆえ、戦術の練習も多かったのかと尋ねると「まったくですよ」という意外な言葉が返ってきた。「2年の終わりまでは、ドリブル練習しかしてなかったです。試合もドリブルだけ、パスはするなという感じで、1対11みたいな。練習メニューは毎日同じで、監督は何も言わない。でも、僕は、監督の意図としている『自分でどれだけ考えてやるかが重要』ということがわかっていたから、相手をイメージしたり、試合でどうすればいいかなど、自分なりに考えながら練習してました」

小・中学で培った足下の技術と考える力。とはいえ、高校進学の際、強豪校からスカウトがあるほどではなかったという。唯一、新たにサッカー部を創部するという大阪桐蔭高等学校の監督から熱心なオファーをもらい進学することを決めた。「僕らの代がサッカー部1期生だったので、1年生の時からすべての公式戦に出場できたんです。3年生が相手だと体格の差もあるから、どうやったら勝てるかを考えたりして。いろいろ経験ができたことで成長できたと思います」

3年次には主将となり、インターハイ出場も果たしたという。ここまでの話を聞くと、サッカー人生の中で大きな壁にぶつかったことがないように思えるが、聞くと「いつでも壁にあたっている」というのだ。「小学生の時もチームで一番ではなかったし、ずば抜けたことがなかったんで、正直、どの年代でも壁にあたっている感じです。だからこそ、常にもっと頑張らなくてはいけない、上手くなりたい、負けたくないという気持ちがありました」

大久保嘉人さんを目の当たりにし、練習に対する意識が変わった

現状に満足することのない向上心が阿部の原動力となり、大学時代にはその才能が一気に開花する。関西学院大学に進むと、1年次からレギュラーを獲得し、関西大学選抜や全日本大学選抜、そしてU-21日本代表にも選出された。また、2年の頃にはプロの練習にも参加するようになり、その中で、ひと際影響を受けた選手がいるという。「当時、ヴィッセル神戸に所属していた大久保嘉人さんです。嘉人さんは、僕と身長も体格もそれほど変わらないのに、何もかもできるし、明らかにレベルも一人だけ違ってました。嘉人さんを目の当たりにして、プロになるにはこれくらい力をつけないと駄目なんだって思い、それからすごく意識して練習するようになりました」

大学時代はプロになることしか考えず、時間があれば筋トレをするなど、サッカーから離れることはほとんどなかったという。今でこそ、攻守に渡るハードワークで知られる阿部だが、ディフェンスの重要性を知り、守備に力を入れるようになったのは大学の頃からだったと振り返る。そうした努力が実り、プロへの扉を開いた後の活躍は先述の通りだ。

「いつかはベストイレブンに選ばれたい」と、プロになって9年目である今もなお向上心を持ち続け、ひたむきにサッカーに取り組む阿部が、最後にサカママにメッセージを残してくれた。「子どもたちが伸び伸びとサッカーができるように、口出しせず、怒らずに見守ってあげてほしいと思います。そうすれば、自分で考えてプレーするようになったり、察知力にもつながるはずです。僕も親になった時、そんなふうに子どもに接したいなと。でも、きっと何か言ってしまいそうですね(笑)」

写真/長谷英史