Jリーガーたちの原点「小林 祐希(ヘーレンフェーン)」
サッカーを始めた幼稚園の頃から負けず嫌いな性格だった
オランダの1部リーグ、ヘーレンフェーンで活躍をみせる小林祐希。昨年は、日本代表に選出、代表初ゴールも決め、今後が期待される逸材だ。
小林が育ったのは東京都東村山市。サッカーを始めたのは、幼稚園の頃だと振り返る。「母が幼稚園を選ぶときに、市内の幼稚園を全部みてまわってくれたそうです。いろいろ考えて決めてくれた幼稚園には園庭とサッカー教室があって、いつのまにかサッカーを始めてました」
すると、小林はすぐにリフティングにのめりこんでいった。幼稚園が終わる2時頃から夜9時まで、ひたすらリフティングの練習を繰り返す日々。そんな小林のために、なんと幼稚園の理事長がナイター設備をつけてくれたという。「照明をつけたら、幼稚園が夜も明るくなってしまい、近所の方から苦情がきてしまったんです。それを理事長が1軒1軒、謝りにいってくれました」。いつも小林がリフティングをやめるまで見守ってくれた理事長とは、今でも交流があるという。
しかし、4、5歳の子どもが、そんな長時間も集中力があったのだろうか。「さすがに最後のほうは集中力が欠けて、まったくできなかったですね。でも、それが悔しいから泣きながら続ける。自分が掲げたその日の目標を達成できずに帰るのも嫌だったから、泣きながら帰ったことが何度もありました。きっとこの頃から負けず嫌いだったんだと思います」
両親から言われたのは「嘘だけはつくな」「中途半端にやるな」ということ
小学生になると、小林の負けん気の強さは増していく。試合では、自分が活躍して試合を勝たせたいと思い、常に自分が一番でありたかったと語る。「今は自分が活躍することでチームを勝たせたいと思うけれど、当時は、個人として活躍できればそれでよかった。とにかく勝ちたかったし、やるからには誰にも負けたくなかったですね」。そんな思いから、時にチームメイトに対し酷いことを口にする小林のことを、チームメイト、その親たちもよくは思わなかった。「僕が嫌われるってことは、必然的に両親も嫌われてしまう。なのに両親は何も言わず、チームメイトや親に謝りに行ってくれたんです。うまく調和してくれた両親には、すごく感謝しています。あの時、もし注意されたり、文句を言われていたら、今の小林祐希は絶対になかった」
両親はプレーに関しても一切何も言わず、いつも肯定的な言葉で褒めてくれたという。唯一言い続けたのは、嘘だけはつくなということ。ある時、チームメイト30人程でリフティングを競い、50回できたら先に座るという練習があった。負けず嫌いの小林は1位になりたいがゆえ、30回やった時点で座ったという。「父はそれをみてたんです。それから、毎日朝6時に起きてリフティング練習。50回リフティングができるまでは学校に行かなくていい、嘘をついたんだからなって。結局、1週間練習を続けて、次のリフティング練習では1位をとれたんですけど、父は、自分自身に、父親に母親に嘘をつくなってことを通して、誰のおかげでサッカーができるのかということも伝えたかったんだと思います」
また、両親は、小林が大好きなサッカーに徹底的に打ち込むなら協力し、ベストな環境を作るというスタンスだった。それゆえ、「勉強しろ」「宿題しろ」とも口にせず、たとえ成績が悪くても何も言わなかったという。反面、自ら好きでやっているサッカーだからこそ、中途半端に取り組むことは一切認めなかった。小林が嘘をついたり、中途半端なことをすると、必ずあることが起こったという。「朝起きると、サッカーウェアや用具が全部なくなってるんです。走ってゴミ収集所へいくと、ごみ袋にまとめられて置いてある。泣きながら取りに行ったことが何度もありました」。やるなら徹底的にやれ、それができないならやらなくていい。極端なまでの両親の教えがあったからこそ、「僕は今でもやるなら100%」だと語る。
中学2年の時に与えられたのはサイドバックのポジションと背番号14
サッカー一色だった小学生時代に早くも突き抜けた才能を発揮していた小林は、東京ヴェルディジュニアユースの菅澤大我コーチ(現、ロアッソ熊本ユース監督)に見出された。「菅澤さんは、僕のサッカー人生をかえた人。ヴェルディに誘ってくれて、いろいろなテクニカルなことを教えてくれました。とにかく大好きで、この人について行くとさえ思っていたのに、1年でいなくなってしまった」。後に、菅澤氏が辞めてしまったのは、チームの体制事情だとわかるのだが、この時の小林が知る由もなく、心から信頼し、憧れていた菅澤氏がいなくなったことが、ただただショックで、悔しかったという。
さらに、中学2年生でのことだ。サッカーをはじめてから常に背番号10番だった小林に手渡されたのは14番、ポジションは左サイドバックだった。「帰りの電車の中では涙が止まりませんでした。家に着いた瞬間、ユニフォームを投げつけて、母親に怒りをぶつけて……」。当時は、反抗期真っ只中、母親は何も言わなかったという。しかし、小林はこの逆境を、自分で乗り越えていく。最初こそ、試合を放棄するようなプレーをし、試合に出れないこともあったが、次第にサイドバックで努力し、自分の色を出すことを考えてプレーするようになったという。それがきっかけで、苦手なことの楽しみ方を知り、サイドバックも楽しいとさえ思えるようになっていった。そして、U-15日本代表に選出される。ポジジョンは、サイドバックだった。
高校年代になると、再び背番号10が手渡された。「僕が中学の時に14番を渡されたのは、チームメイトがいる、支えてくれる人がいるということ、その一つひとつを考える必要があったからだと思います。プロになってから、そのことに気付きました」。この頃、小林は練習の3、4時間前には行って、すべてのボールに空気を入れ、ゼッケンを畳み、ボトルを用意するのが日課だったという。「これが、僕の自信でもあったんです。誰にも文句を言わせないめに」。そんな姿を見た仲間たちが、いつしか小林を認め、当時のヴェルディユースは、数々の大会を制し、第90回天皇杯全日本サッカー選手権大会にも出場した。「親たちも、毎試合観て、感動して、泣いてましたね。観てる人を泣かせる試合ができたのも、このチームだったからだと思います」
その後、東京ヴェルディのトップチームに昇格し、クラブ史上最年少で主将を務めた。2012年から、ジュビロ磐田に移籍し、J1復帰に貢献。そして、前述のヘーレンフェーンに移籍して1年を迎えようとしている。
小林は『メンタルが強い』『ビッグマウス』と言われることについて「じつは僕が小学2年の頃、両親が離婚したんです。当時は、家庭で何か起きると、もやもやしたままプレーして、上手くいかないこともたくさんあった。それを一つひとつ自分自身で克服してプロになれたんです。苦しいことも、嫌なことも、たくさん経験したし、それを自分で考えて、乗り越えて、決断してきた自負が僕にはある。ただ、母親は、どんな時も何も言わず、僕の意思を尊重してくれました」と語る。
そして、最後にサカママにメッセージをくれた。「とにかく、子どもをいっぱい褒めて、たくさん話をしてあげてほしい。常に子どもを肯定して、応援して、受け入れてあげれば、子どもは勝手に伸びていくと思うんです。たとえ自分の子が試合に出れなくても、褒め続けることが大事だと思います」
写真/@NIKE
2017年7月発行の22号掲載