Jリーガーたちの原点 vol.08「吉田 麻也(サウサンプトンFC)」
取材・文/小澤一郎 写真/藤井隆弘
たまたま家族と出かけた名古屋で受けたジュニアユースに見事合格
海外移籍が難しいとされるセンターバックとしてオランダ、イングランドでプレーし、現在の日本代表の不動のレギュラーとしてワールドカップ・ブラジル大会での活躍が期待される吉田麻也。名古屋グランパスの下部組織出身選手として名古屋で頭角を現した吉田だが、出身は九州の長崎県だ。すでに有名な話しではあるが、名古屋のジュニアユースセレクションを受験したのは本当に偶然だったという。九州と関西にあるJクラブのセレクション受験を検討していた吉田だが、名古屋のセレクションの日が一番早く、その予定を兄が送ってきて、たまたま名古屋に住んでいた従兄弟に子供が生まれたので、父親が「子供を見に行こう」と言って家族で名古屋に行ったついでに名古屋のジュニアユースセレクションを受けたところまさかの合格。しかし、合格した後に初めて親元を離れてどのように名古屋で生活するのかという問題に直面した。当初は名古屋にいた別の従兄弟を頼って生活する予定だったが、諸事情により実現せず、最終的には三兄弟の一番上の長男が「しばりがない」という理由で麻也と一緒に名古屋に移住し、兄弟二人での生活が始まった。
名古屋での兄との2人暮らしがスタート
飛んでいくお金を見てプロになる覚悟
当時の名古屋の下部組織には三重県、奈良県出身の選手はいたものの、吉田ほど遠い県から入団した選手はいなかった。クラブ関係者は吉田に「それだけ遠くから来るのはさすがにリスクが高すぎるので、今までも、これからもいない」と説明したという。逆に言うと名古屋は吉田の能力と将来を高く評価していたということだが、目に見える形でリスクを背負ったのは吉田家だった。名古屋のセレクションを受ける動機が「たまたま」だったように、その時期までの吉田に「プロサッカー選手になる」という目標はなく、逆に「プロなんてなれるわけがないと思っていた」と振り返る。「サッカーは趣味程度でやっていました。体が大きかったのと多少は上手な方でしたので、やれてはいました。でも、別にそれで自分がプロになってW杯に出場するなんて全く思っていなかった」と語る吉田が本気でプロを目指すようになったのは、名古屋での生活に向けてお金が出て行く様子を間近で見てから。
「名古屋に来て、兄貴も来ることになって、最初は母と一緒に行って学校の手続きをして、家を決めます。そこで敷金、礼金がかかり、家具を揃える。そうやって何十万というお金が目の前から飛んでいくことがわかるわけじゃないですか。僕の感覚では『1年間くらいサッカー修行をしに行く』という感じだったのですが、その時に『これは1年では帰れないぞ』と思って、そこから『プロになる』と覚悟を決めました」。しかし、母親を含めて当時の吉田家は末っ子の麻也にそれだけの人的、経済的サポートをしながら「これだけお金がかかったんだから」といった言葉やプレッシャーを一切かけず、「恩着せがましいところが全くなかった」と吉田は話す。「そこがプレッシャーを感じ過ぎずにいられた要因だと思います。プレッシャーはありましたし、それだけお金がかかっていることを自分の目で見たけれど、それを親から言われたことが一度もなかったので、そこは親に感謝しています」と述べる。ちなみに、吉田は中学、高校年代で親元を離れて暮らすことについて「僕も実際にホームシックにかかりましたから」と明かした上で、こうアドバイスを送る。「僕はホームシックになっても誰も助けてくれなかったので、そこで強くなれたと思います。子供のメンタリティによりますから、一概には言えないし親元を離れるのは難しい問題ですが、僕が思うにそういうことは本人が決めないとダメだと思います。サッカースクールや地元の高校に行って話す時には必ず『本人が決めるようにした方がいい』と言います。僕の時も兄貴に『名古屋に行け』と決められて行って、成功していなかったら兄貴のせいにしていたと思います。結局自分の人生なので、自分で選んだ道は自分が責任をとらないといけない。保護者から『早めに出ていった方がいいですか?』、『迷っています』と質問、相談された時には必ず『自分で決めた方がいいですよ』と言っています」
勉強と選択肢を求めて県立高校進学
時間がないからこそ授業に最大限集中
プロになるという覚悟を持って名古屋での生活をスタートさせた吉田だが、中学3年間を終えた後の高校選びに関しても彼らしさを見せた。名古屋U-18の選手はクラブが提携する私学の高校に通うことが一般的だったが、「楽な方に流れていくのが嫌だった」という吉田は県立高校への進学を決意する。「僕は勉強もしたかったし、選択肢を増やしておきたかったので。私立の学校に行った場合、もしサッカーがダメになってしまった時の選択肢がかなり狭まってしまうのと、僕は中学校から親元を離れて名古屋に来ていたので公立高校の受験権利がありました。親元を離れて来ているので私立に行くと言い難いのもあって県立を受けたら、受かりました」。高校時代からプレミアリーグでプレーする姿を想像し、「英語は意識して勉強していました」と語る吉田は、ユース時代からトップの練習に呼ばれることもあり「勉強する時間が本当になかった」という高校生活を送る。しかし、「テスト週間の休みでもクラブの練習があった」という状況だからこそ、目の前の授業に集中して自宅に戻って予習、復習しなくてもいいよう「授業中に他の生徒よりも多くを吸収しようと思って受けていた」という。実家暮らしではない中高時代は、親から「勉強しろ」と言われなかった吉田だが、だからこそ周囲から「サッカー馬鹿と思われるのが嫌だった」という。「勉強もある程度、平均くらいは出来ておいて、文句を言わせないようにしたいというのがありました。中学生の時に一度『サッカーやってるから仕方ないね』みたいなことを言われたことがあって、『サッカーしかしていない』と思われるのが歯がゆかったので、どの課目も、特に英語は平均以上の成績をとっていました」
親元を離れてわかった親のありがたみ、成功の裏にある吉田家の惜しみない愛情
最後に吉田は、親のサポートについてこう感謝の言葉を述べた。「小学生時代の車での送迎、親が当番制でドリンクを用意してくれたり、汚れたユニフォームの洗濯など、うちの母親は絶対に文句を言いませんでした。小学生の時にはわかりませんでしたが、中学生になって兄貴と2人暮らしをするようになり『自分のことは自分で』というルールで泥々のユニフォームを自分で洗濯をすると、今まで何の文句も言わずやってくれた母親はすごいと親のありがたみがわかりました」。兄の影響でサッカーを始め、「家の近くにあったから」という理由で普通の街クラブに入り、「サッカーを本気でやっていたわけではなかったし、1時間もかけてJクラブの下部組織に行こうなんて思ってもいなかった」という小学生がプロとなり、日本代表となり、海外移籍を達成する世界的な選手となった背景には、「自分の人生は自分で決める」という吉田の強い意志はもちろんのこと、吉田家の恩着せがましくないサポートと惜しみない愛情があり、そこはどの家庭にとっても参考となるだろう。