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Jリーガーたちの原点「江坂任(柏レイソル)」

周りの友達がゲームにハマってもサッカー以外、楽しいことはなかった

柏レイソルで背番号10を背負う江坂任。名門・神戸弘陵学園高校から、流通経済大学へ進み、2015年にザスパクサツ群馬に加入。ルーキーイヤーに13ゴールを記録し、翌年には大宮アルディージャへ。主力として活躍し、2018年に柏レイソルに移籍後は、攻撃の中心選手としてチームを牽引している。

プラチナ世代と呼ばれる1992年生まれの江坂は、現在28歳。サッカーを始めたのは年中の頃だった。「父がバスケのコーチをしていたのですが、幼稚園の時に入れるのがサッカーチームだったので、まずはサッカーを始めました」。小学校に上がると、バスケも始めたが、断然楽しかったのはサッカーだったという。「シュートを決めるのがとにかく楽しくて、喜びを感じていました。周りの友達はゲームもしてましたけど、僕はサッカー以外、楽しいことがなかったですね。いいプレーをして、褒められたり、ちやほやされるのも嬉しくて。点を獲る、いいプレーをする楽しさを見出したんだと思います」

セレクションに落ち、ライバルに負けたことが悔しかった

江坂任
Photo:Getty Images

所属していた地元のサッカークラブ「ウッディSC」には、現在、横浜FCで活躍する小川慶治朗が在籍していた。「慶治朗とは、常に一番を競い合っていた感じですね。練習中に喧嘩もしたり。負けず嫌いではあったのですが、さらに負けたくない意欲が強くなった気がします」。切磋琢磨しあいながら江坂と小川は実力をつけ、県の選抜にも選ばれるようになり、一緒にヴィッセル神戸ジュニアユースのセレクションを受けたと振り返る。「最終テストまでは50選考ほどあるのですが、僕はすぐに落ちてしまったんです。でも慶治朗は合格して、そこからトップチームまで上がったわけです。一番負けたくない相手に負けたことは、相当悔しかったですね。その後、セレッソ大阪のジュニアユースも受けたのですが、最終選考で落ちてしまって。結局、中学は地元のクラブチームに入りました」

希望のサッカー進路ではなかったがゆえ、バスケを選ぶことは考えなかったのだろうか。「サッカーがとにかく楽しかったので、辞めるという選択はなかったです。両親にヴィッセル神戸の練習場によく連れていってもらい、間近でプロをみたことで、憧れもより強くなりましたからね。ただ、バスケをやっていたことで空間認知能力が育まれ、それが今に活きていると思います」

運転が得意ではなかった母。車で送迎してくれたことに感謝

小学生の試合では、親が車を出してチームメイトを送迎することも多く、江坂の母も時折、送ってくれることがあったという。「母は車の運転が得意ではなかったんですよね(苦笑)。しかも、当時はカーナビもついていないので、試合会場をインターネットで探して、印刷した地図を見ながら運転してくれて。今思えば、すごく面倒くさいことをさせていたし、大変だったと思います」

サッカー中心の生活の中、時に母からは勉強について小言を言われたりもしたが、父からは怒られたことが一度もなく、バスケをずっとやってきたことから「人間として成長してくれたらいい」というスタンスで、いつも見守ってくれていたと話す。「両親は、遠方の試合でも応援にきてくれたりと、自分のやりたいことを犠牲にしてサポートしてくれていたと強く感じています。当時はまったくわかっていなかったですけど、年齢を重ねていくと、親がどれほどサポートしてくれて、時間を割いてくれていたのか、身にしみてわかりますね。大学まで行かせてもらったので恩返ししたいですし、プロを簡単に諦めるわけ にはいかないと思っています」

大学の監督が厳しかったからこそ成長につながった

江坂任
Photo:Getty Images

思い描いていたチームに所属することができなかった中学時代。けれど、自暴自棄になったり、自信を失うことは一度もなかったと振り返る。「僕とは対照的に、ヴィッセル神戸ジュニアユースに入った慶治朗は、アンダーカテゴリーの代表に選ばれたりと、どんどん活躍していきました。でも、負けを認めたくはなかったし、心の奥底で『まだ、負けてはいない』と思っていましたからね」。結局、2年間で地元のクラブチームをやめ、中学のサッカー部に入部するも、プロになることを目標に掲げ、常にサッカーをしていたという。「最終的にプロになることが目標ではあったんですけど、そのために逆算して練習を積んでいったというよりは、小中高時代は、とにかくサッカーが楽しくて、練習をしていました」

今でこそ、冷静で感情をあらわにするタイプではない江坂だが、プロになる前は、荒々しかったと分析する。「学生時代は、もっと粗削りな面も多くて、感情も出していました。とくに中学時代は、コーチと喧嘩するくらいでしたから。でも、大学の監督との出会いで変わりました。今までにないほどの厳しさを味わって、ナニクソと思うこともありましたけど、それを力に変えてやっていましたね。監督の厳しさがあったからこそ、自分で考えて行動するようになったし、何より成長につながったと思います」

そんな厳しい監督のもと、大学4年時には、全日本大学サッカー選手権大会で得点王となり、チームを優勝へと導いた。しかし、Jリーグからのオファーは、ザスパクサツ群馬(以下、群馬)のみだった。「結果も残して、優勝も手にしたのに、群馬からしかオファーがなくて、本当に悔しかったです。でも、群馬に拾ってもらったことで、ここで結果を残して、他のチームに納得させるという考えに変わりました。努力して、いずれ結果につながれば、悔しさは、喜び、嬉しさ、楽しさに変わる。結果論ではありますけど、ヴィッセル神戸やセレッソ大阪のジュニアユースに落ちたこと、そしてオファーが群馬のみだっ たことも、今ではよかったと思っています」

群馬以降の活躍は、上述した通りだ。「Jリーグで優勝して、その中心にいたい」と語る江坂。最後に、子どもたちとサカママにメッセージを送ってくれた。

「子どもたちは、とにかくサッカーを楽しんで、好きになってもらいたい。サッカーの中で楽しみを見つけて、どんどん増やしてほしいなと思います。また、誰にも負けたくないという部分を見出せればもっとサッカーが楽しくなるはず。僕自身、サッカーをやっていた弟にだけは絶対に負けたくないと思っていましたからね。

親御さんは、大人にしかできないサポートをしてあげて、子どもが気持ちよくサッカーができる環境をつくってあげてほしいと思います。サッカー選手にさせたいと思って、無理に強要してしまうと、サッカーが嫌いになってしまうかもしれません。サッカーが好きなら絶対に自ら練習するはずですから。子どもが一番楽しんでいることをみつけてあげること、そして見えない部分でサポートすることが大切なのかなと思います」

写真提供/柏レイソル