Jリーガーたちの原点 「浅野拓磨(VfBシュトゥットガルト)」
人気連載の「Jリーガーたちの原点」。今号では番外編として、サンフレッチェ広島ではベストヤングプレイヤー賞を受賞し、日本代表にも選出され、今季よりドイツ・ブンデスリーガのシュトゥットガルトでプレーする浅野拓磨選手に、ジュニア時代のサッカーとの関わり方などを語ってもらいました。
生まれた時から、常に生活の周りにサッカーがありました
ピッチを縦横無尽に駆け回り、風を切り裂くような爆発的なスピードでゴールを陥れる。今季よりドイツ・ブンデスリーガのシュトゥットガルトでプレーする浅野拓磨は、欧州でもその快足を活かし、好調なチームで重要な役割を担っている。
日本を代表する、このスピードスターの経歴は実に輝かしいものだ。全国高校サッカー選手権では地元三重県の名門・四日市中央工業高校(四中工)から3年連続で出場し、2年次には7得点を挙げ得点王に輝いている。鳴り物入りで入団したサンフレッチェ広島では、ベストヤングプレイヤー賞を受賞し、昨年は背番号10を背負い、日本代表にも選出された。現在は、プレミアリーグの名門アーセナルから期限付き移籍で、ドイツ2部リーグで日々研鑽を積んでいる。
まさに順風満帆なキャリアを突き進む浅野だが、その道程は決して平坦なものではなかったという。生まれは三重県菰野町。7人兄弟の大家族の3男として生まれ育った浅野は、二人の兄の影響から、物心がつく頃には自然とボールを蹴っていた。
「生まれた時から、常に生活の周りにサッカーがありました。本格的に始めたのは小学校1年生の頃。兄貴の影響もそうですが、保育園で同い年の友達もサッカーをしていて、友達の両親からも薦められたのを覚えています」
所属した「ペルナSC」は、サッカーを楽しむことに重点を置いたサッカークラブ。伸び伸びとプレーすることを許された浅野少年は、メキメキと、その腕を上げていった。
「所属したクラブの方針もあって、僕にとってサッカーは楽しくて好きなものでした。小学校のころから勝ちを求めるチームは、縦にボールを放り込むだけで『楽しそうじゃないな』と(笑)。僕らのチームは、まずドリブルをすることから教えてもらって、『ボールを蹴ってクリアするくらいなら、ドリブルにトライしてボールを取られて失点したほうがいい』という方針でした。だからこそ、勝てたときの喜びは格別でしたし、技術もすごく磨いてくれて、一つひとつのプレーができるようになる喜びも教えてもらいました。このジュニア時代に自由にボールに触れる時間を十分に持てたことが、今になって重要だったと思います」
では、その大好きなサッカーが“楽しむ”ものから“プロを目指す”ものに変わったのはいつだったのだろうか?
プロであれば誰もが経験するであろう転換期だが、浅野にとっての明確な“それ”はなかったと言う。
「『将来の夢は?』と聞かれたときに、僕は常にサッカー選手になりたいと言っていました。両親からも『拓はプロサッカー選手になるでな』と日々言われていたし、それしか考えていなかったです。正直、中学に入って周りのレベルが上がっていくと、『プロになれるのかな……』と不安になったことはありました。けど、それは絶対に口には出しませんでした。両親のことを考えると『プロになれない』なんてとても言えなかったし、その精神はプロになった今にもつながっています。この頃があったから何があっても弱音を吐かないし、何事にもポジティブに考えられるようになったと思います」
中学のサッカー部の顧問の先生の一言に、僕の心は大きく動いた
常に前向きな両親からの応援と、双肩に圧し掛かる大きな期待。「プロになる」という明確でいて壮大な目標を持ち続け、菰野町立八風中でも獅子奮迅の活躍を見せた。しかしその後の高校への進学は、彼の大きな悩みの種となった。サッカー部の顧問も、担任の先生も、彼の実力を考えれば当然のように四中工へ進学するものと思っていた。だが、浅野はある理由から、地元の名門校への進学希望を胸の奥にしまい込んでいた。
「僕は7人兄弟の大家族ということもあり、家庭の経済事情を考えると四中工には『行きたい』じゃなく『行けない』と思っていました。小学生の頃からプロになろうと思っていましたが、四中工ほど強い高校じゃなくても、それなりに強い学校に行って、一人で目立てればいいって。国体に出て活躍して、プロに誘われる道もあるんじゃないかと。半ば自分に言い聞かせていました(苦笑)」
名門校におけるチーム内での激しい競争、過酷なトレーニング、強豪校との連戦……、それらはむしろ浅野にとって望むところであり、何より四中工への進学は、全国高校サッカー選手権という大舞台への道が一気に開けることを意味した。しかし、そんな熱い想いを胸の内に隠し、黙々とサッカーに打ち込む日々が続く。そんな彼を見かねてか、ある日声をかけてくれたのが、サッカー部の顧問の先生であった。
「声には出していなかったけど、僕が四中工への進学を望んでいたことを、顧問の先生は分かってくれていたんだと思います。それである日、『両親に我慢してもらって、3年後に返していけばいいと』と言っていただき、僕の心は大きく動きました。それは四中工に入って、『自分の力でプロになれ』という意味だと。何かの事情のせいにするのではなく、3年間、必死で頑張ればいいんだって……。自分の中で可能性が見えました」
四中工へ進学してからの浅野の目覚ましい活躍は冒頭の通り。高校サッカー選手権で全国的な知名度を得ると、悲願だったプロへの階段を一気に駆け上がった。高校進学の選択が正しかったことを、自らの足で証明してみせたのだ。
母は常に前向きな言葉をかけてくれました
「高校に入ってからはそれまでにも増して、両親からは親孝行をしてもしきれないくらい世話になったと思います。両親は自分にすべてを懸けてくれました。だから、プロになるために四中工でサッカー漬けの日々を過ごしました。その過程で『(プロに)なりたい』は『ならなくてはいけない』になりました。だからこそ、中学校の先生にも感謝しています。あの一言がなければ、自分は今何をしているのだろうと思うことがあります」
今の高みに到達することは、自分一人の力では成しえなかった。だからこそ、浅野は世話になった人たちへの感謝の気持ちを忘れることはない。
「お世話になった方々のおかげで今の自分があることは絶対です。だからそれに報いるために、100%の強い気持ちを持ってサッカーをしています。恩返しをする気持ちは、チカラに変わるんです」
プロになる夢を叶えた浅野の戦場は、欧州トップリーグ、そして日本代表へと移り、世界を相手にさらに大きな挑戦を続けている。そんな浅野から、全国のサカママへメッセージをいただいた。
「お母さま方に言える立場ではないんですけど…(笑)」と前置きしつつ、自身の経験から、こんな言葉を残してくれた。
「僕の母は伸び伸びと自分たちのやりたいことをやらせてくれる人でした。それが僕は合っていたのだと思います。親の応援は子どもにとってチカラになります。でも、そんなに力をいれ過ぎず、時には静かに見守ってあげて、本人が一生懸命やりたいと言うのであれば、その環境を作ってあげればいいんだと思います。
あと、僕の母は常に前向きな言葉をかけてくれました。『あんたが出てなかったから今日の試合負けたな!』って。僕もそれに便乗して、『そうそう!俺が出とったら勝っとったで』って(笑)。そんなやりとりをしょっちゅうしていました。サッカーに限らず、上手くいかないことはあります。その時に親がかけてくれる前向きな言葉って、後になっても大切な心の支えになるのだと思います」
写真/金壮龍