サッカー王国静岡生まれジュビロ育ち 「お父さんってサッカー選手なんでしょ?」の葛藤。
サカママ 生活がスタートした静岡県浜松市への移住。
主人となった松森亮は、出会ったころはジュビロ磐田のwebプランナーとして広報補佐であり、その後広報を経て運営としてジュビロの選手、スタッフ、サポーター、スポンサー、地域の皆様の仲介役として勤めていました。
サッカーリポーターの時に、サッカーマガジンの特集ページを見て『サッカーのある生活』という書籍を購入し、こんなにもサッカーへ人生を注ぎ、思いを寄せる人がいるのかと驚きがあり話を聞いてみたいと思ったのがキッカケとなった。
サッカー好きの裏返しには、市立船橋時代 全国高校サッカー優勝、U20日本代表に選出され、ジュビロ磐田に入団。
当時は選手からクラブスタッフ、社員入りは少なく、今のようにセカンドキャリアも整っていなかったであろう時代に、疑問としては「何故、突き放されたクラブに戻ったのか。辛くなかったのか」という心境を聞きたかった。
引退後W E Bの専門学校に進学し、サッカー選手のH Pを作成するサポートを経てジュビロへWEBプランナーとして再度門戸を叩きチャレンジをしたようだが、、、
ジュビロの黄金期に高卒ルーキーは試合には出場できず、サテライトリーグで切磋琢磨していたようだが、現役時代は知らず、依って、私はJリーガーとして認めていない。
選手として魅力を感じたのではなく、現役選手を縁の下の力持ちのように支え、刺激溢れるクラブスタッフの職について興味が沸き、私自身も就職活動の業種にサッカーチームの募集を調べていたほど 松森の探究心、そして、チームを支える職に興味があったのだろう。
生まれ育った東京を離れ、静岡に移り住むのが新鮮だった。ジュビロの練習場 磐田市にある大久保グラウンドにほぼ毎日通い、練習見学をした。
ウォーミングアップでは先頭を走る選手、選手同士の仲の良さ、練習を見ながらサポーターが世間話する姿、選手やスタッフ同士、試合とは違う柔らかな表情でコミュニケーションする姿、一発芸をする姿を見守り、練習後の静けさ、静岡の太陽の心地よさ、手入れされたピッチの生命力、四季折々に化粧する木々、香りに人間味溢れるほのぼのさに癒されていた。
忙しなく時が過ぎる都会の喧騒から離れ、警備員さん、スタッフさん、サポーターの皆さんが、初対面でも「おはようございます」と元気に挨拶してくださる心の暖かさ、時間の経過の穏やかさに都会育ちの私には新鮮で心の扉を徐々に開けていき、長閑さが安らぎであり第二の故郷と思えるようになった。
T V各局、地元紙、ラジオでも毎日のように、静岡県内のジュビロ磐田、清水エスパルス、藤枝M Y F C、アスルクラロ沼津始め、Honda F C、フットサルなど地元のスポーツについての情報が取り上げられていて、自然と接触機会が与えられ、チームの看板選手だけでなく、若手選手、期待の選手、ベテランなど分け隔てなく意気込みや、パーソナル情報など特集が組まれ、チームのカラーや選手のキャラクターを掴む事ができた。Jクラブ全体を見る面白さから、1チームを見続ける面白さへ変化しながらも、対戦相手の選手メンバーのマッチアップなど楽しみが増えていった。
選手たちのサイン色紙が飾られている老舗の鰻屋さんや、ジュビロサポーターが集まるお店など、応援団の方のお店を訪問し、サッカー好きが自然と集まる場所を巡り、サポーターと一緒にフットサルやサッカーするなど交流も増えていく。
磐田市内の小学生は一斉観戦という授業の一環で応援を学び、選手と触れ合い、試合を観戦する。
おらがチームとして育つ少年少女は、サッカー少年少女ではなくとも自然とキャップを被り、キャラクターのグッズをランドセルに身につける。
チームキャラクターがモチーフにされた磐田駅や清水駅など各チームの最寄駅に降り立つと、サックスブルー、オレンジ一色で、生活に寄り添い地域に根ざした愛され度に満たされる。里帰り出産せず妊娠中から静岡の愛に育まれ、穏やかに過ごした。
産後直後、対アルビレックス新潟の試合で7−0で大勝。昨シーズン現役引退された太田吉彰選手のゴールで、ゆりかごをしてもらえたのは一生の思い出である。 静岡のお友達やご近所さん、スタッフやサポーターの皆さん沢山の方々に抱っこして頂いた。
主人のフットサルチームの彼女、奥様で構成されたレディースチームでフットサルを再開したので、長男の寝返りも、初めて歩いたのも、ボールを蹴ったのもヤマハスタジアムやゆめりあ、上大之郷など磐田のグラウンドのピッチでスクスクと成長していった。
試合観戦が人生の楽しみで、息子と一緒にホームの試合、関東や近隣のアウェイの試合にも足を運び幼稚園では、年少から園のサッカースクールに入り友達の輪を広げながら、集団行動や社会性を身につけつつ、練習中に砂いじりし、反対のゴールに点を決めるなど遊びつつ、自由奔放に興じた。
小学生では、幼稚園のお友達と一緒にジュビロサッカースクールに入り、初対面の子供達とサッカーをした。ジュビロの前座試合なども経験させて頂き、選手たちが試合をする神聖なピッチで、サポーターの皆さんの温かい拍手なども糧になりながら貴重な経験をさせて頂いた。
選手と手を繋いで入場するエスコートキッズ企画に息子の親友が当選し、息子も参加させてもらえ、小林祐希選手と一緒に歩く事ができ、夢が膨らむ格別の経験もできた。
また父がジュビロの仕事を退職するシーズンラストホームゲーム。サポーターの皆さんから横断幕とともに松森コールして頂いた際、応援団に近づいていく姿を見て涙が溢れる母と、まさか応援団を怒らせたのではないかと心配していた息子。
あたたかいコールで背中を押してくださった皆様の優しさは、松森だけのエールではなくジュビロで働いてきたという証、築いていた信頼関係を息子たちへ見せてくださったサポーター有志の皆さんの家族のような愛情だったと聞き、さらに涙が出た。
主人の選手時代は知らない家族のため、小3の息子の夢はサッカー選手とは恐れ多く、ジュビロ磐田の社員になって恩返しすることだった。 当時の木村社長にもご挨拶する際に想いを伝え「社員の前に選手を目指せ。一番上を目指して、とことんサッカー頑張ってこい」と握手してくださり、一丁前に「ジュビロの選手になりたい」と抱いた淡い夢は、躊躇いから確信に変わっていった。
小4の春、静岡から東京に引越し地元小学校の少年団に入る。 サッカースクールではスクール交流戦などが中心だった試合とは違い、少年団ではお父さんコーチによる指導のもと、毎週土日祝日は試合や練習三昧で、サッカー少年らしい経験をさせてもらった。
初めての転校で遠州弁が出てしまい、喋るとアクセントが違うことを指摘され、それまで活発な芸たっぷりの剽軽な息子から、クールな寡黙なキャラになり、一歩下がり冷静に観察するようになっていった。元々繊細さ、メンタルの弱さがありガツガツさが足りず、知らない環境、初対面のメンバーに飛び込むというチャレンジは息子にとって課題だったはず。 信頼できる仲間に支えられ恵まれた。
生かし生かされる関係を築けば築くほど、サッカーではパスも通り、ゴールを量産し始めた。 沢山の大会にチャレンジしては、ドラマのような展開に母親たちも声がかれるまで声援を送り、勝利に喜び、敗戦に泣き、お父さんコーチに励まされ、次の一歩を踏み出すというファミリーのような絆を紡いで行った。
サッカーの環境を変える度に いく先々にて、息子にとってぶつかったのは気持ちの捉えようで小さな壁であり、年頃になり大きくも感じていたかも知れない壁。
「サッカー選手の子供なんでしょ」という投げかけに戸惑うことも。
無論、サッカー選手と自信を持って言えるような自慢の父ではないことが事実で、幼少期は、土日祝は勿論、連休や長期休みなどはむしろ試合が開催されるため子供と過ごす時間はなく、息子とサッカーするような父親としての役割は難しかった。
その為、自己流でサッカーをしていた為、基礎ができておらず、小学生低学年で、テクニックも荒削りで、リフティングも満足に出来ていなかった。
言われれば、言われるほど 恥ずかしかったはず。無情にも成長とともにスタイル、シルエットは似通っていき、父の知人、サッカー仲間からも父親と比べ重ねられてしまう葛藤を抱え、何気ない挨拶のような言葉であり、周りからの目はそれほどにないにしろ、プレッシャーになっていた頃もあっただろう。
いつしか、目標としては高くない父親に負けたくないという悔しさ、むしろ父親を超えてやるという想いが目標となっていった。自分自身で受け流す術、笑い飛ばし方を見つけるようになる。
スポーツ経験者の親子ならば、親との比較や親を目標にする、誰もがあるだろう葛藤。
自分はこれだけ練習したぞという親の威厳も含め天秤にかけられえるメンタルの強さ、周りを比較せずに、あくまで自分自身との戦いだと気づいていくまで悶々とすることもあるだろう。
静岡でのサッカーのある生活、新天地での経験が糧となり、人間として成長するため、もっと息子には旅をさせなくてはと感じた。
次回は、中学サッカー、ジュニアユースへの挑戦について記していきたいと思います。