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Jリーガーたちの原点 「三浦弦太(ガンバ大阪)」

褒めて伸ばす指導だったからこそ 
ひたすらサッカーが楽しかった

名門、大阪桐蔭高校から清水エスパルスに入団し、プロへの道を切り開いた三浦弦太。2017年にガンバ大阪に完全移籍すると、不動のセンターバックとして活躍し、一昨年からキャプテンに。日本代表にも選出され、その実力を数多の大舞台で発揮している。

そんな三浦がサッカーと出会ったのは年長の時。
「幼稚園の友達がサッカーをやっていて、人数が足らないからということで、仲が良かった友達が数人呼ばれたんです。それがすごく楽しかったのを今でも覚えています」

小学校に上がり、友達も入ったからという理由で入部したのが地元・豊橋市のFC豊橋リトルJセレソン。ジュニアユースもあるチームではあったが、とりわけ強豪ではなかったという。

「街クラブなので、当時は豊橋市の中でそこそこ強い程度でしたけど、僕より上手い選手はたくさんいました。昔から負けず嫌いだったので、チームメイトには負けたくないという思いがあったし、上手い子たちがいたからこそ、刺激をもらって切磋琢磨できたんだと思います」

負けず嫌いな小学生なら、リフティングの回数を競い合ったりもしそうだが、三浦はリフティングには全く興味がなく、地道な自主練などもせず、ひたすら楽しくサッカーをしていたという。それには、チームの指導法が影響しているといっていいだろう。

「基本的に厳しくというよりは、褒めて伸ばす指導法だったので、サッカーを嫌になることもなく、楽しんで気持ちよくできていたんだと思います。それと、考えてサッカーをやることを教えてもらったので、それが今でもプレーにつながっていますね」

三浦の相手の攻撃を先読みする力は、この頃から培われていったにちがいない。

楽しい時も辛い時も一緒にサッカーをしたから深い仲に

 
写真提供/GAMBA OSAKA

両親は共働きだったこともあり、サッカーに関して干渉されることはなかったと振り返る。

「母は試合の送り迎えなどのサポートはしてくれましたけど、細かいことは何も言わなかったですね。父も仕事が忙しくて、試合を観に来るのも稀だったくらいです。でも、僕が頼った時は、両親はいつも助けてくれて。今思えば、干渉されなかったから、逆にいい方向にいったのかなと思います。ただ、2人とも礼儀には厳しかったですね」

小さい頃から体格には恵まれていたという三浦にその理由を訊ねると、母親が管理栄養士だったという。

「いつも栄養のバランスを考えてくれたし、中学時代は1日5食も食べていたにも関わらず、毎食嫌がらずに作ってくれました」

中学になると愛知県のトレセンのメンバーにも選ばれるようになる。驚くことにそのメンバーとは今でもつながっているという。

「毎年、サッカーをしたり、泊まったり。トレセンのメンバーだけでなく、幼稚園の頃からサッカーで知り合った友達とは、今でもつながってますね。楽しい時も辛い時も、一緒にサッカーをして過ごしてきたからこそ、より深い仲になれたんだと思います」

さらに、セレクションでも、コミュニケーション力を発揮する。

「セレクションでは、大抵1回しか会わないんですけど、サッカー以外でも積極的にコミュニケーションをとっていたから、いまだに携帯に連絡先が入ってたりするんです(笑)。セレクションでは指導者に圧倒的プレーをみせることも大事だと思いますけど、コミュニケーションをとっていれば、時にプレーで助けてくれたりもしますからね」

そのコミュニケーション力の高さは「母の影響が大きい」と意外な答えが返ってきた。

「母は僕のサッカー仲間の親御さんたちとも積極的に関わってくれて、いまだに仲がいいんです。そんな母をみて育ったから、誰とでも気兼ねなくしゃべれたのかもしれないですね」

地元を離れる決断に、駄目とは言わず応援してくれた両親に感謝

 
写真提供/GAMBA OSAKA

三浦は高校から親元を離れ、寮生活を選択するのだが、中学2年の頃までは全く考えてもいなかったという。それどころか、サッカーは市内で強い程度の、勉強をしっかりやる地元の公立高校に進学しようと思っていたというのだ。それが、大阪桐蔭高校と練習試合をするようになると一変、より上を目指したいという思いが芽生えていった。さらに、チームメイトだった白井康介(現、北海道コンサドーレ札幌)が大阪桐蔭高校へ行くと決めたことで三浦も同じ道へ進むことを決意する。

「ずっと一緒にやってきた仲間が(大阪桐蔭高校へ)行くと決めたからこそ、僕も選んだというのはあります。自分一人だったらどんな決断をしていたかわからなかったですね。僕は周りに恵まれていて、仲間や監督、コーチにいいタイミングで出会い、助けてもらったと思っています」

その決心に驚いたのは他でもない両親だろう。両親は三浦が地元を離れるとは予想さえしていなかったからだ。

「両親は地元の公立高校で勉強して、なんなら公務員になってほしいくらいの感覚でいたと思います。でも、僕が決断したことには駄目とは言わずに応援してくれました。それがなかったら今の自分は絶対にないと思うので、感謝しています」

サッカーが上手くなりたい――その一心で入った大阪桐蔭高校だったが、サッカーはもちろん、寮生活も厳しかったという。

「携帯を持てなかったり、不便なことも多かったので、最初の頃は嫌だという感情はありましたね。ただ、中学時代に自分がどれだけ親に甘えていたのかがわかったし、寮生活の3年間があったからこそ成長できたんだと思います」

厳しい環境ながらも、高校で才能が一気に開花、その後の活躍は先述の通りだ。「サッカーを好きでいる気持ちだけは今も持ち続けている」と、サッカーへの情熱と、負けず嫌いの性格は小学生時代から変わっていない。そして、すぐに気持ちが切り替えられるタイプだというから、プロとして最高のスキルの持ち主といえるだろう。それだけに、今後の活躍がますます期待される。そんな三浦が最後に、サカママと子どもたちにメッセージを残してくれた。

「僕の両親は、サッカーだけでなく、やりたいことを否定せずに応援してくれました。子どもにとっては、それが一番嬉しいことだと思うので、親御さんはそんなサポートをしてあげてほしいと思います。子どもたちに伝えたいのは、今は可能性が無限大にあるということ。だからこそ、技術の練習もしっかりしてほしい。サッカーをしていると、試合に出れなかったり、上手くいかなかったり、全部が楽しいだけではないですよね。僕自身、小学生の頃はフォワードで中学でディフェンスになり、葛藤はあったけれど、楽しむ方法をみつけだしました。『好きこそ物の上手なれ』だと思うので、サッカーを好きでいる気持ちだけは忘れず、楽しんで続けてほしいと思います」

写真提供/GAMBA OSAKA


誌面の訂正
本インタビューを掲載したサカママ34号にて、所属チームの名称に誤りがございました。お詫びして訂正いたします。
【誤】FC豊橋デューミラン
【正】FC豊橋リトルJセレソン