【サッカーの続け方】松岡翔太(ビーチサッカー日本代表)
サッカーに関わる仕事を紹介するこのコーナー。今回はビーチサッカー日本代表でプレーする松岡選手にお話を伺いました。選手生活とスポーツブランド代表という2つの顔を持つ松岡選手。その原動力は、サッカーに対する純粋な想いにありました。
CASE ビーチサッカー日本代表
JAPANサッカーカレッジで、サッカーに対する視野が広がった
──サッカー歴について教えてくさい。
「兄の影響で小学生から始め、地元の強豪である大津高校に一般入試で入りました。サッカー部は“年中夢求(ねんじゅうむきゅう=夢を求める)”をコンセプトに掲げ、365日サッカー漬けの毎日でした。プロが夢だったので、どんなに練習が辛くても、辞めたいと思ったことはなかったです」
──高校卒業後の進路は考えていましたか?
「トップチームに入れなかった自分が、どうやったらプロになれるかを考えていました。そこで友人からサッカーの専門学校『JAPANサッカーカレッジ(JSC)』の存在を教えてもらい、『行くしかない!』と思いました。サッカー専攻科で1年間過ごし、2年生から2年間、アルビレックス新潟シンガポールでプレーしました。そもそも海外は初めてだったのですが、多国籍の選手が集うリーグで、サッカーはもちろん、いろんな文化に触れ、非常に濃い時間を送ることができました。チームメイトにはJのクラブから移籍してきた選手もいましたし、プロ選手としての考え方を学ぶことができました」
──視野が広がったということですね。
「そうですね。それから国を問わずにチャレンジしようと思い、タイのトップリーグを含む5チームのプロテストに参加しました。しかし結果は伴わず、資金を貯めるために一時帰国した時に、『ビーチサッカー』に出会ったんです。大津高の先輩から『トレーニングの一環としても良いから!』とチームに誘われて、そこで出場した大会をきっかけに入団が決まりました。オファー自体も当然嬉しかったのですが、何よりビーチサッカーという競技の魅力にハマりました。5vs5のコートは38mとコンパクトで、DFをやってきた僕がガンガンシュートを決めることもできる。サッカーのあらゆる要素が詰まっていて、もう虜でしたね」
念願の日本代表初選出。涙する妻を見て喜びを実感
──ビーチサッカーのリーグ構成はどうなっているのでしょうか?
「日本一を決める全国大会と、1年を通して各地域でリーグ戦を行い、地域代表による年間1位を決めるチャンピオンシップが主な大会です。山口、東京で計6年プレーし、2年前から地元でもあるアヴェルダージ熊本BSに入団しました。昨年は念願でもあった日本代表にも選出されました」
──日本代表に選ばれた瞬間は?
「僕よりも中学校からの同級生である妻が喜んでくれました。大津高で試合にも出られず、陽の目を見ることがなかった僕のサッカー人生を、誰よりも支えてくれた妻が泣いている姿を見て、『やっと恩返しができたんだ』と思いました」
──2011年には自身のスポーツブランド「EVOLE(エボレジャパン)」も設立されていますね。
「21歳で起業して8年目です。どうせ仕事をするなら好きなことをしたいと思い、服飾の知識もなかったのですが、デザインから販売まで全部自分で手掛けました。人とのつながりがコンセプトにあり、これまで関係してきたサッカーを中心に、野球、バレーと、競技を問わず新しい商品が生まれています」
──何が原動力となって、ここまで選手活動を続けて来られたと思いますか?
「僕はサッカーでトップになれなかったからこそ、夢を諦め切れなったんだと思います。1月のブラジル遠征を終え、ラモス瑠偉監督からは、刺激を受け続けています。今は日の丸を背負い、新たな夢に向かって突き進みたいと思っています」
松岡さんから高校生へのアドバイス
「大津高校の平岡和徳総監督からいただいた3つ格言『24時間をデザインする』、『コツコツが勝つコツ』、『凡事徹底』を胸に日々を過ごしています。平等に与えられた時間を自ら設計し、日々の積み上げを大切に、当たり前の質を上げていく。みなさんも1日を無駄にせず夢に向かって頑張ってください!」