Jリーガーたちの原点「旗手怜央(川崎フロンターレ)」 | サカママ メインコンテンツに移動

Jリーガーたちの原点「旗手怜央(川崎フロンターレ)」

スポーツ貧血が改善できたのは、母の料理とサポートのおかげ

強靭な身体と豊富な運動量で、フォワードながら複数のポジションをこなす旗手怜央。名門・静岡学園高校から順天堂大学へ進み、3年次には川崎フロンターレ入団が内定。昨年プロデビューを果たし、さらなる活躍が期待される若き逸材の一人だ。

旗手がサッカーを始めたのは小学生になった頃だと振り返る。「周囲の友達がサッカーをやっていた影響で始めたのをなんとなく覚えています。遊びの延長ですよね。最初は地元の少年団に入りました」。3年生になると、もっとサッカーにのめり込みたい、集中したいという思いが強くなっていったという。「『違うチームに行きたい』と僕から母に話したんだと思います。母は僕に何かをやらせることはなく、いつも僕の意見を尊重してくれていましたから。強豪チームをいろいろ調べてくれて、いくつか体験に行った中から、FC四日市ジュニアに決めました」。当時、旗手が住んでいたのは三重県鈴鹿市。新たに入部したチームの練習がある四日市市までは、車で片道1時間かかり、練習は週に3、4回もあった。「いくら息子のためだとはいえ、大変だったと思います」

中学も、そのままFC四日市へ。当時、多かったのは走り込みの練習だった。旗手はその練習についていくことができなかったという。それもそのはず、後日、病院で検査をすると、スポーツ貧血だということが判明した。「赤血球やヘモグロビンの量が足りてないので、とにかくその量を増やさないといけなくて。だから、母が鉄分の多い料理を作ってくれたり、いろいろと工夫をしてくれました」。母の惜しみないサポートにより、病状は回復していったという。

チャンピオンズリーグに出たい。その思いが今もなお原動力に

 

サッカーが好きで、上手くなりたいという一心で練習を続けていく中、漠然とプロになりたいという思いが芽生えていく。高校進学を決める際、後に進むことになる静岡学園高校の練習に参加した時のこと。練習にはFC四日市の監督も一緒に来てくれたという。「監督は『頑張れよ』の言葉もなく、練習が終わった後も、何も言わなかったんです。でも、何一つ言わずに見守ってくれたことが今でも忘れられないですね。もし、『無理だ』と言われていたら、諦めていたかもしれないし、逆に『行ったほういい』と勧められてたら、天狗になっていたかもしれない。とても温かな監督だったと思います」

三重から静岡へと、高校は親元を離れる道を選んだ。「両親は本当にいつも僕がやりたいように、伸び伸びとさせてくれた印象しかないんです」と、両親には感謝することがいっぱいありすぎるという。

さらに寮に入ってすぐに感じたのが、母へのありがたみだった。「寮生活は、掃除も洗濯も自分でしないといけない。それを目の当たりにした時、これまで、おいしい食事を用意してくれたり、僕が気づいてないことも全部やってくれていた母は、本当に偉大だと思いましたし、さらに感謝の気持ちが芽生えました」

高校時代、サッカー部の監督は、いつも旗手を鼓舞してくれたという。「僕が知っている先輩たち、例えば、今、同じチームの竜也さん(長谷川竜也選手)と比べて『竜也はもっと練習してたぞ』と。監督は、僕が負けず嫌いで、何くそと思ってやる性格だとわかっていたから、いつもそんなふうに声をかけてくれてたんだと思います」。さらに、監督からの言葉が、今もなお原動力になっている。「監督には『日本代表になれ』ではなく、『チャンピオンズリーグに出るチームに入れ』と言われていました。そのためには、欧州のトップチームに入らないといけない。チャンピオンズリーグに出ることが目標となり、その思いは今も持ち続けています」

旗手が、小・中・高で培ったのは、個の技術だったという。「どのチームも、個人が成長することにフォーカスをおいた指導だったのがよかったのかなと思っています。だから、ドリブル、リフティングはずっと練習していたし、それが今の僕のベースになっている部分だと思いますね」

高校2年次には、全国高校サッカー選手権に出場するなどメキメキと実力を発揮。順天堂大学に進学すると、その才能が一気に開花する。1年次に関東大学サッカーリーグで新人王を獲得し、2年次には全日本大学選抜に入り、世代別代表にも選ばれるように。「僕は、元々足も速くなかったし、身体も弱く、足もとの技術も上手くはなかった。でも、高校、大学と、あえて一番厳しい道を選択してきたのがよかったのかなと。そんな環境の中でサッカーを続けられたことも、サッカーを通して培われたことの一つかもしれないですね」。旗手がすごく大事にしている言葉が「継続は力なり」。実家に飾ってあった石に書かれていた名言で、幼い時から目にしていたことで、今では座右の銘にもなっている。そうした言葉も「サッカーをやり続ける」ことへの源になっていたのかもしれない。

東京五輪は貴重な経験に。早くA代表でプレーしたい

 

プロ2年目を迎え、今夏は、U-24日本代表として東京五輪にも出場。オーバーエイジの3選手の印象について尋ねると「ピッチ内外での放つオーラが違った」という言葉が返ってきた。「3選手とも、謙虚なんですけど、ピッチでは堂々としているし、苦しい時には何かしてくれる。とくに麻也さんをみていると、A代表のキャプテンのすごさを感じました。3選手と一緒にプレーをさせてもらえたことは貴重な経験でしたし、何よりも早くA代表でプレーしたいという思いが一層強くなりました」

同じチームで同期だった三笘薫選手が、サンジロワーズ(ベルギー)へ移籍したことはどう感じているのだろうか。「焦りはそんなにないですね。『今、自分のやるべきことをやらないといけない』と常に言い聞かせ、日々、頑張るのみです」

プロとして結果や責任が問われる中でも、大枠の「サッカーが楽しい」という思いは、小学生の頃と変わっていないという旗手。最後に、子どもたちとサカママにメッセージを残してくれた。

「勝ち負けにこだわることは大事ではあるんですけど、子どもたちは、純粋にサッカーを楽しむことが一番だと思います。そうすれば、徐々に上手くなっていったり、もっと強くなりたいという思いもでてくるはずです。

親御さんは、サッカーのことに関しては何も言わず、子どもたちを見守ってもらえればと思います。ただ『頑張れ』という一言は言ってあげてほしい。僕の母も『頑張れ』だけは、常に言ってくれていましたから。その一言があれば、子どもはきっと頑張れると思います」

※このインタビューは2021年9月に行ったものです

写真提供/川崎フロンターレ