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Jリーガーたちの原点「酒井高徳(ヴィッセル神戸)」

本格的にサッカーを始めるきっかけは、河川敷での運命的な出会いだった

一昨年、ヴィッセル神戸に移籍し、Jリーグに復帰した酒井高徳。7年半もの間ドイツ・ブンデスリーガでプレーし、日本人初のキャプテンにも任命された。日本代表としても、2018年ロシアW杯に出場している。

そんな酒井が生まれたのは、アメリカ・ニューヨーク。「ニューヨーク生まれではあるものの、ニューヨーク生まれらしいですってくらいピンときてないんです(笑)」。2歳の頃に新潟県三条市へ移り、サッカーを始めたのは小学5年の時だったと振り返る。「近所の幼なじみのお兄ちゃんがサッカーをやっていてすごく楽しそうだったので、教えてもらうようになったんです」

ある日、河川敷にボールを蹴ろうと思って行った酒井は、運命的な出会いをする。「ボールを蹴る場所がなくて、ボーッと突っ立ってたら、声をかけられて『サッカー好きなの? 小学校は?』と。それに答えると『僕は三条サッカースポーツ少年団のコーチなんだけど、その小学校の子は2~3人入っているよ。よかったら』と少年団のパンフレットを渡されました」。この時まで、酒井は地域に少年団があることも、ましてや本格的にサッカーをやりたいとさえも思っていなかったという。「この日、コーチに誘われなかったら今の自分はないと思います。この時に出会えたことが、ここまでサッカーをやってこれている運命の始まりだったのかなと思いますね」

少年団に入っている子たちに話を聞きに行くと、大歓迎してくれたこともあり「少年団に入ってサッカーをしたい」と強く思ったという。その気持ちをすぐに父親に伝えると、「『続けられるならいいよ』とすんなり了承してくれました。僕が何かをやりたいと言ったのは、この時が初めてだったからだと思います」。

5年生での少年団への加入は、サッカーを始めるには遅いスタートになるだろう。周囲には上手い子が数多いる中で、どのような練習をしていたのか尋ねると、練習内容というよりは「負けず嫌いの性格が根付いていたのが大きかった」という答えが返ってきた。「定期的にリフティングのテストがあったんですけど、みんなよりも回数が少ないと、とにかく悔しくて。だから、外でも家の中でも、四六時中リフティングの練習を続けました」。また、当時から研究熱心であり、毎週、雑誌「ストライカー」を買ってもらい、そこに載っている世界の名選手の技を、弟を相手に繰り返していたという。

トレセンや県選抜で挫折するも、反骨心と父からの叱咤激励で成長できた

 
写真提供/VISSEL KOBE

少しでも上手くなりたい、負けたくないという想いで、日々練習を続けた酒井はメキメキと力をつけ、すぐに地区のトレセンに合格。中学に上がってからは、県選抜にも選ばれるようになる。順風満帆なサッカー人生を歩み出したのかと思いきや、トレセン、県選抜に行く度に、壁にぶち当たっていたと話す。「レベルが1つ上がると、すごく上手い選手がいるから、いつも自分の下手さを痛感させられました。でも、負けたくない気持ちが強いから、反骨精神を持って努力し、成長していった感じですね」

また、父親からの鼓舞する言葉も酒井を支えていた。「父は、僕のことをすごく応援してくれていたんですけど、その反面、試合に負けて落ち込んだりしていると『そんなに嫌ならやめていいぞ』『悔しいんだったらもっとやりなさい』と冗談交じりに言われて。父にチクチクと刺さるような叱咤激励をしてもらったことが、もっと成長したいと思うアクセントになってましたね」

一方、母親からは言葉はなくとも、生活の中でサポートしてもらったという。「とくに中学に上がってからはサッカー漬けの毎日で、遅い時には帰宅するのが午後11時になることもあったんです。そんな遅い時間でも食事の準備をいつもしてくれて。僕の生活に合わせて家事をやってもらったり、いろいろな角度からサポートしてもらいました」。酒井は4人兄弟であり、みなスポーツをやっているだけに、日々のサポートは想像を絶するほど大変だったにちがいない。

一人のサッカー選手である前に、人して立派な人間でありたい

 
写真提供/VISSEL KOBE

高校から親元を離れ、アルビレックス新潟ユースに入団。この頃から、プロを意識するようになっていく。「寮生活になったことで、いろいろとお金がかかるようになったし、気持ちの部分でも親に心配をかけることが多かったので、両親に恩返しができるのはプロになることしかないと思っていました」。さらに、すぐ横でトップチームが練習しているという環境も酒井を奮い立たせ、高校2年の頃には、トップチームに帯同する機会も増えていった。

そんな中、高校生という未熟な時期だったゆえ、酒井は慢心してしまう。「寮生活なのに外食を何日も続けたり、プロではないのに勘違いをしているような態度をとってしまったんです」。酒井の様子は当然監督の耳にも入った。「プロになった気分でいるなら、トップチームのコーチに昇格させないよう伝えておく」―― そう言われたことで、思い上がった態度をとってしまった後悔、情けない気持ちが溢れだして号泣したという。

その時に監督から言われた「一人のサッカー選手である前に、人間として立派な人でいなさい。人間性を持った人がプロになれるし、プロの世界でやっていける」という言葉が今でも酒井の支えになっている。「一人の選手というよりは、人としてどれだけきちんとしているかということが、サッカー選手にとって大事だということを、今でも肝に銘じています。この言葉が僕の人生を変えた、自分のあるべき姿をつくってくれたと思っています」

監督やコーチはもちろん、よきタイミングでいろいろな人に出会えて、アドバイスがもらえていることに「本当に人に恵まれていると思いますし、感謝しています」と語る酒井。最後に、自身の経験を踏まえ、サカママにメッセージを残してくれた。

「親御さんたちは、息子さんや娘さんが、10年、20年後、サッカー選手になって、両親に感謝を述べるようになってほしいなと思いながら、今、頑張ってサポートされていると思います。その夢を持ち続けてほしいですし、その努力は将来のお子さんに必ず反映されると思うんです。仮にサッカー選手にならなかったとしても、親がしっかりやってくれたということに、子は感謝しているものです。両親の支えは子にとってすごく大事なことなので、いろいろ大変なことがあると思うのですが、将来のアスリート、一流のスポーツ選手、そして一流の人間になれるように、精一杯サポートし続けてあげてください」

写真提供/VISSEL KOBE