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三好 康児 スペシャルインタビュー (第32回全日本少年サッカー大会・決勝大会出場)

昨シーズン、北海道コンサドーレ札幌で活躍をみせた三好康児選手。U-21の日本代表にも選ばれ、東京五輪代表候補としても注目を浴びている選手の1人で、コパ・アメリカでもウルグアイ戦で2得点を挙げるなど大活躍です。じつは三好選手は、第32回全日本少年サッカー大会・決勝大会に神奈川県代表「川崎フロンターレU-12」のメンバーとして出場。そこで三好選手に、ジュニア時代のことや決勝大会で感じたこと、当時の両親のサポートについてお聞きしました。

日韓ワールドカップを見てプロになりたいと思った


―― まずは、サッカーを始めたきっかけを教えてください。

「4つ上の兄が小学校のクラブチームに入っていたんです。それで、僕も小学校1年生になるタイミングで入りました。ありきたりですよね(笑)」

―― いえいえ、でもプロサッカー選手の話を聞いていると、きっかけはそうでも弟さんが成功するタイプが多い気がします。

「低学年の頃から、兄や年上の人とやっていたので、自ずとうまくなる部分はあったかもしれないですね。保育園のときに日韓ワールドカップを見てから“プロになりたい”という思いがあって、この頃から常にサッカーが上手い人と一緒にプレーしたいという気持ちがありました。今でも、同学年よりも、上の学年のメンバーのほうが仲がいいですね」

―― 小学生の頃は、遊びもサッカーでしたか?

「そうですね。多摩川の河川敷のグラウンドが近くにあって、いつでも使えたので、常にサッカーでした。父はサッカー経験者ではないのですが、クラブチームで僕の学年のコーチをしていて、みんなを入れたがるタイプだったんです。それで、まわりの友達もサッカーをするようになって。今振りかえると、そういった環境もよかったですね」

全少の予選をPKで勝ち取ったのは今でも鮮明に覚えている

―― 三好選手が川崎フロンターレU-12(以下、フロンターレU-12)に所属したのは、何年生のときですか?

「5年生です。今、早稲田大学のサッカー部でキャプテンを務めている岡田優希が隣の小学校のチームに入っていて、父親同士も知り合いだったので、仲がよかったんです。僕はそれほどJリーグには興味がなかったのですが、岡田が先にフロンターレU-12に入っていて、次の年もセレクションがあるという話を聞いたので、力試しというか興味本位で受けてみようかなと。そしたら合格できて、入るしかないという感じでしたね」

―― フロンターレU-12 に入ってみて、どうでしたか?

「当時の髙﨑康嗣監督(現、グルージャ盛岡のコーチ)がすごく厳しかったんです(苦笑)。1日の練習で1人は泣いてたくらい。でも、今思えば、その指導のおかげでチームも強くなっていったし、今でも僕のプレーの中でいきてる部分がありますね。それと、監督にずっと言われていたのは、フロンターレU-12はプロになるための組織だということ。一流選手になるためには、私生活の部分も一流じゃないといけないというのを小学生のときに、とことん叩き込まれました」

―― そんな中で、いつしか全少の決勝大会を目指すように?

「5年生のときは予選で敗退しました。僕は、フロンターレU-12の第一期生だったので、上の学年がいなくて、5年生のときに6年生の大会にたくさん出ることができたんです。でも、小学生の頃って、1学年の差がけっこう大きいので負けることも多くて。それこそ、僕が以前所属していたクラブチームに負けたこともありました。でも、そういう経験を踏めたことがよかったんだと思います。神奈川県は強豪チームが多い中、6年生のときの全少の予選では、なんとか決勝まで残れて。バディーSCが相手だったのですが、ぎりぎりPKで勝ったことは、今でもしっかりと記憶に残っています」

―― 全国の舞台で、印象に残っていることはありますか?

「全国大会に出るのは、全少の決勝大会が初めてだったんです。でも、みんな自信を持っていたし、優勝できると思ってました。結果は、ベスト8。最後の試合は、内容的にも押していたのに、PKで負けてしまって、すごく悔しかったという思い出がありますね」

試合でもっと頑張ろうと思えたのは、いつも両親が応援に来てくれたから


―― ジュニア時代、ご両親はどういったサポートをしてくれていました?

「フロンターレU-12の練習へは、授業が終わるとそのまま電車で行ってたんです。だから母がいつも駅までリュックを持って来てくれて、ランドセルを持ち帰ってくれてました。それと、両親は、いつも試合を見に来てくれてましたね。しかも、必ず試合をビデオに撮るんです。僕はプレーを振り返るのが好きではなかったので、録画したものは一切見なかったんですけど、両親は何度も見てて、「また見てるの?!」って思うくらい(笑)。両親の趣味は、僕がやっているサッカーを見ることで、それは今でも変わってないですね」

―― ご両親は、全少の決勝大会も応援に?

「当時、決勝大会はJヴィレッジ(福島)であったんですけど、両親は全試合見て応援してくれました。親が来てくれるだけで、子どもはもっと頑張ろうと思うから、そのときの両親の存在は大きかったですね。祖父母の家が福島にあったので、おじいちゃん、おばあちゃんも応援に来てくれました」

―― Jリーグの下部組織に所属していると、何度もふるいにかけられて、生き残るのが厳しいこともあると思うのですが、今までサッカーをやめたいと思ったことはありますか?

「一度もないですね。フロンターレU-12に入ったことで、漠然とプロになりたいと思っていたのが、明確になりましたから。サッカーノートに1日1ページ、練習の内容や感想を書いて、何歳になったらどこでプレーするなど目標も書いてましたね。小学生から中学生の間、毎日書いていたので、10冊くらいたまったのですが、今でも父がそのノートを取ってくれているんです。たまに実家に帰ると、読み返すことがあるんですけど、当時、何を考えていたのかを振り返ることができるので、書き綴っていてよかったと思います」

―― やはりサッカーノートを書くことは大事ですね。サッカージュニアにとって、他に大切なことはありますか?

「サッカーはやらされるのではなくて、自分がやりたくなることが一番大事。遊びでもいいので、ボールに触れる時間は長ければ長いほどいいのかなと思います。それと、もし、できないことがあったら、どうすればできるようになるのかを、自分で考えてみることも大切だと思いますね。それができれば、もっとサッカーが楽しくなりますから」

―― 最後に、サカママにメッセージをお願いします。

「親御さんには、お子さんの試合を見てあげてほしいと思います。繰り返しになりますけど、僕自身、親が来てくれたことで、何度も頑張ろうと思えたし、帰った後に、試合の話も共有できますから。両親は試合を見た後、「もっと走ったほうがいいよ」「全然ボールに触ってない」と言ってくるんですけど、僕が「でもサッカー知らないでしょ!」と言い返す、みたいな(笑)。今もその関係性は変わってないですね。とにかく、お子さんの試合を応援しにいくことが大事だと思います」