Jリーガーたちの原点 vol.10「稲本 潤一(川崎フロンターレ)」
取材・文/編集部 写真/ 足立雅史
5歳のころからはじめたサッカー
今も変わらないサッカーへの情熱
プレミアリーグの強豪アーセナルをはじめとするヨーロッパの数々のクラブでプレーし、日本代表としてワールドカップ3大会連続出場するなど、数々の輝かしい実績を誇る稲本潤一選手。現在は川崎フロンターレでプレーしているが、今シーズンはボランチではなくDFとしてセンターバックに挑戦し、今でもプレーの幅を広げるべく日々の努力を怠らない。常に新しいことに挑戦を続けている稲本の原動力は、サッカーをはじめた頃と何ら変わらない「サッカーが楽しい」という純粋な気持ちだ。
稲本がサッカーをはじめたのは5歳の頃。
「親が幼稚園のサッカークラブに入れたのがきっかけですね。気づいたらサッカーをはじめていた感じです。小学校6年間も幼稚園と同じクラブにずっと通っていました。特にサッカーを好きになるきっかけはなかったですが、嫌がらずに練習には行ってましたし、辞めたいと思った記憶はないです。小学校に入学するタイミングで辞めようと思えば辞めることもできたと思いますが、同じクラブで続けてサッカーができたということもあるし、サッカーをすごく楽しみながらプレーしていましたね。当時はポジションもFWで足が速かったので、点をとるのが楽しかったんだと思います」
年代別代表やジュニアユースで培ったあくなき向上心で世界を目指す
幼稚園、小学校と堺市にある青英学園SCでプレーしていた稲本は、当時から才能を開花させ、小学校5年のときに大阪トレセン、6年生で関西選抜にも選ばれ、関西では注目される選手のひとりとなっていた。そして6年生のときに「12歳以下ナショナルトレセン」に選ばれ、全国各地から集まった選手たちと一緒にトレーニングすることになる。メンバーの中には現在もJリーグでプレ-する小野伸二選手や高原直泰選手の姿もあった。
「全国から集まってくる選手たちと一緒にサッカーをしてみて、衝撃を受けた部分はありました。地元では通用していた部分が通用しなかったり。その当時は静岡が特に強くて小野伸二もいましたしね。だから、上には上がいると感じた思いは、今でもまだ覚えています。ただ、元々ポジティブに考える性格だし、挫折したという感じではなかったです。そこで強い選手たちと出会っていなければ逆に天狗になっていかもしれないですから。トレセンに参加して、良い出会いがあったと思うので、自分のチームに帰ってきてからより上を目指そうと思いました」
中学入学後はガンバ大阪のジュニアユース、ガンバ大阪ユースを経て、17歳6ヶ月という当時最年少でJリーグに出場し、3試合後にはゴールも記録した。そして、稲本はトップチームの練習に専念するため通信制の高校に転校し、本格的にプロの道を歩むことになる。その間も、年代別の日本代表に選ばれており、ワールドユースでの準優勝、シドニー五輪代表など、日本代表の主力選手として活躍。21歳のときには海外へ移籍し、ワールドカップ出場も果たした。順風満帆に見えるキャリアだが、この結果は稲本の才能だけではなく、たゆまない努力があったからこそ。ユース時代の監督やコーチとの出会いも大きく影響を受けたと、彼は言う。
「ユースの練習では、止めて蹴るというプレーの反復練習をたくさんやりましたね。それ以外の練習も充実した内容だったと思います。基本的に負けず嫌いなので、上を目指すために練習はひとつひとつ全力でやりました。例えば、スタートの合図と同時にすぐ行くとか、細かい部分でも手を抜くことは絶対しませんでしたね。そのときの監督やコーチとの出会いにも恵まれていたと思います。監督たちからは、国内だけではなく世界に目線を持つことが大切だと言われていたので、より視野を広げて、常に日本からアジアへ、世界へという気持ちでプレーしていました」
自分で決めたサッカーの道を陰ながら支えてくれた両親
幼少の頃からサッカー漬けの日々を送る稲本だったが、たとえ練習場が遠くても厳しい練習があっても泣き言も言わず、サッカーを辞めることはなかった。そして、両親は稲本を常にあたたかく見守り、サポートしてくれたという。
「僕が自由にサッカーをできる環境を両親が作ってくれて、僕自身サッカーがとにかく好きだったので、今まで辞めたいと思ったことは一度もなかったし、苦しい練習でも楽しみながらやってこられたんだと思っています。とにかくサッカーを自由にやらせてもらっていたし、何をするにも両親は協力的でした。例えば、高校受験をして高校サッカーを目指すのではなく、ユースに行くと自分で決めたときも、僕の意見を尊重してくれましたし、高校2年生のときに高校を辞めてトップの練習に行くようトップチームから誘いがあったときも、自分がしたいようにやればいいと母は言ってくれましたね。だから、僕の選択に対していつも背中を押してくれていたと思います。自宅からユースの練習場が遠かったので、帰りがいつも夜の11時ぐらいだったんですが、帰宅が遅いときでも、すぐにごはんを食べられるように用意して寝ないで待っていてくれたりとか、何も言わずにフォローしてくれていました。そのおかげで、精神的にもたくましく育ったのかなというのはありますね。小さい頃の僕はやんちゃで、近所の人にひたすら謝っていたと両親には言われるんですけど、僕にはその記憶がない(笑)。でも、そういうサッカー以外の部分も、子どもの一歩うしろから常にフォローをしてくれていたんだなと、今は感謝しています」
稲本が真剣にサッカーに取り組んでいることが両親にも十分伝わっていたから、協力を惜しまなかったのだろうが、そのときにあれこれ口出しをするのではなく、一歩下がって稲本を常にサポートしていたことが、世界で活躍する一流選手を育て上げた結果につながったのかもしれない。
サッカーへの興味を摘むことなく両親がしっかりサポートを
今もサッカーへの情熱を忘れることなく、日本サッカー界の第一線で活躍している稲本がサカママや子どもたちへ熱いメッセージを送る。
「僕が子どものころに比べて、サッカーをテレビで見たり、サッカーに触れる回数が今の子どもたちは多いですよね。そういった情報の中でいろいろな選手を見て、サッカーをやりたいと思っている子どもたちも増えていると思います。もしお子さんがやりたいといっているときにはぜひやらせてあげてください。そして、サッカーをはじめた子どもたちがサッカーを嫌いにならないよう、両親にはフォローをしてほしいと思います。今回のワールドカップの結果を見て“僕も頑張ろう”と思う子どももたくさん出てくると思うので、そういった子どもたちが自由にサッカーができる環境作りをサポートしてあげてほしいです。今の子どもたちがこれからのサッカー文化を築いていくわけですから、サカママを読んでいるお母さんたちも一緒に日本のサッカー文化を作っていってもらいたいですね」