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Jリーガーたちの原点「水沼宏太(横浜F・マリノス)」

人気連載「Jリーガーたちの原点」。今回は、横浜F・マリノスで活躍する水沼宏太選手にインタビュー。第23回全日本少年サッカー大会・決勝大会に出場した思い出やジュニア時代に培ったこと、両親のサポートについてなど大いに語ってもらいました。

自由にサッカーをさせてくれて、温かく見守ってくれたあざみ野FC

―最初にサッカーを始めたきっかけを教えてください。

「父(元サッカー日本代表の水沼貴史氏)の影響もあって、いつの間にかボールを蹴って、サッカーを始めていた感じです。父は僕にサッカーをさせた覚えはないと言ってますけど、小さい頃の写真や動画を見る限り、いつもボールが横にありました(笑)」

―あざみ野FCを選んだ理由は?

「年中の頃から近所の公園でやっていたサッカースクールに入っていたのですが、父があざみ野FCを探してきて薦めてくれました。小学2年生の時に体験に行ったのですが、初めて行く場所・友達とサッカーをするのが本当はすごく嫌で・・・。でも、いざ練習をしてみると、今までにないレベルの高さに驚きました。その刺激が楽しいと感じて、『ここでやる!』と両親に伝えた記憶があります」

―あざみ野FCはどんな環境でしたか?

「サッカーの楽しさを教えてくれて、とにかく自由にさせてくれました。当時はセンターフォワードだったのですが、あまり動かず、1試合に5本以上シュートを打ってゴールを決めていくようなタイプだったんです。それに対して、コーチは何も言わなかったですし、いつもシュート練習に付き合ってくれて、自分のシュートセンスを伸ばしてくれたと思います。あざみ野FCは子どもたちの親がいつも見守って応援してくれる温かいチーム。だから、チームメイトの親も『宏太はどんどんシュートを打っていい』と。チームのみんなに助けてもらっていたと思います」

全少の宿舎で行ったお土産交換会。その後に起こった偶然の出会い

―そんな中で、全日本少年サッカー大会・決勝大会(以下、全少)を目指すように?

「4年生の時、メンバーには選ばれなかったのですが、チームとして初めて全少に出場したんです。『頑張ればこのチームで全国大会に出れるんだ』という気持ちになったのを覚えています。でも、あれほど強かった6年生のチームが全少では打ちのめされて、レベルの高さを感じました」

―水沼選手が全国の舞台を踏んだのは第23回全日本少年サッカー大会。5年生の時ですよね?

「全少の切符を手に入れたのは一学年上のチーム。メンバーには常に入っていたものの、5年生だったこともあって16人(登録人数)に選ばれるかはわからなかったんです。でも、県大会の決勝に出たことで選ばれて、『全少の舞台に立てる』と思うと嬉しかったですし、すごく楽しみでした」

―全国の舞台はどうでしたか?

「1試合目の相手は、何度か対戦したことのある強豪の江南南サッカースポーツ少年団(埼玉県代表)。何で全少で対戦しなければいけないんだと思いましたね。結果、ボコボコに負けて、予選リーグ敗退でした」

―試合以外で印象に残っている思い出は?

「朝はみんなでラジオ体操をするので、すごい人数なんです。全国から集まっているのを目の当たりにして、ドキドキとワクワク感があったのを覚えています。当時、チーム同士でご当地のものを交換するお土産交換会があって、僕らは徳島のチームと交換したんです。その後、U-21日本代表で招集された時、初めて会った選手に『全少でお土産交換したよ』と声をかけられて(笑)。一気に打ち解けた選手が、今チームメイトの實藤友紀選手です」

母がおいしいごはんを作って待ってくれていたことが嬉しかった

―6年生でも全少に出場できたんですか?

「県大会前に骨折をしてしまって予選に出れず、チームも準決勝で負けてしまいました。悔しかったし、2年生からずっと一緒にやってきた仲間と6年生の時に全少に出たかったという思いが今でもすごくあります。でも、みんなで高いレベルを目指して一緒に頑張ったことはいい経験になったし、本当に大切な仲間ができたと思っています。30代になった今でも昔の仲間と集まると当時の話になり『お前がケガしなかったら絶対に出られた』と言われますね(笑)」

―小学生時代、ご両親はどんなサポートを?

「父は忙しい人だったので、いつも母が練習や試合の送り迎えをしてくれました。骨折をした時も食事でサポートしてくれましたし、母がいなかったら、ここまでこられていなかったと思います。大好きなサッカーをしてお腹を空かせて帰った時に、おいしいごはんを作って待ってくれていたことが嬉しかったですね」

―サッカーのことで、ご両親に何か言われたことはありますか?

「自由にサッカーをさせてくれていたと思います。母は試合に勝ったら一緒に喜んでくれ、負けたら悔しがってくれて。父からもサッカーについて言われたことは全くないんです。だから、たまに見に来てくれる練習や試合では逆に気が引き締まって、いい所を見せようと思っていました。父のサポートで印象に残っているのは、骨折をした時のこと。右足を骨折したなら左足の練習はできる、やれることをやろうと。クッションボールを使って一緒に基本的な技術練習をしてくれました」

今シーズン優勝できたことで実感。諦めずにやり続ければ夢は叶う

 

―中学からは横浜F・マリノスJrユースへ。プロ意識も段々と芽生えていきました?

「中1の時、ずっと憧れていたF・マリノスのユニフォームを初めて着た時の感動は、今でも覚えています。
中学時代は、自分の思い通りにサッカーができなくて、身体もついていかず、伸び悩んでいました。それでも、とにかくサッカーが好きだったので、諦めなかったですね。できることを精一杯やろうと思って努力したことで、1つ山を越えることができたのかなと。この時期、きっと父は何か言いたかったと思うんです。でも、口出しをせずに、僕が聞いたことだけに応えてくれました。F・マリノスのユースに上がれるのが決まった時に『プロにならなければいけない』と意識が変わりましたし、高校生になってからは『絶対にプロになってやる』という気持ちでいました」

―横浜F・マリノスユースの時に、U-17日本代表にも選ばれましたよね。

「ユースに上がったものの、試合に出られないことも多く、たまたま出たBチームの試合で調子が良かったことがあったんです。それを偶然にもU-15日本代表のコーチが見にきていて、代表に入るきっかけになりました。必ず誰かが見てくれていると思いましたし、どんな時でも全力でやることが自分の道を作っていくんだと感じました。
プロになってから悔しい思いをしたり、つらい時期もありましたけど、いつもいい出会いがあり、人に恵まれたことで成長できたと確信しています。何より、諦めずにやり続けることで想像もしなかった未来が待っているんだと、今シーズン優勝できたことで改めて実感しました」

―最後にサッカージュニアとサカママへ、メッセージをお願いします。

「自分が親になって思うのは、子どもを伸ばすためには温かく見守ってあげることが大事だということ。子どもたちが抱くサッカーの目標に、お母さんたちは寄り添ってあげてほしいと思います。僕自身、母にそんな風にサポートしてもらって助かったし、今は感謝しかないですね。
子どもたちに伝えたいのは、諦めなければ夢は叶うということ。夢を持ってサッカーをやり続けることで、打たれ強さや継続力も付いていきます。もしサッカーを辞めてしまったら得意なことを見つけて続けること。夢に向かってどれだけ頑張れるか、やり続けられるかが大事だと思います」

写真提供/横浜F・マリノス