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Jリーガーたちの原点「大島僚太(川崎フロンターレ)」

サッカーとの出会いは、従妹のお姉ちゃんの影響だった

サッカーの名門、静岡学園高校を卒業後、2011年に川崎フロンターレに加入した大島僚太。ルーキーイヤーから出場機会を掴み、2016年には、チームで日本人選手初となる背番号10を託された。5年連続でJリーグ優秀選手に選ばれ、2018年にはロシアワールドカップ日本代表メンバーにも選出。プロ12年目となる今シーズンも活躍が期待されている。

そんな大島が生まれたのは、静岡県静岡市。サッカーとの出会いは、小学校に入学する前だったと振り返る。「従妹のお姉ちゃんがサッカーを習っていて、当時、僕はそのお姉ちゃんの真似をするのが大好きだったんです(笑)。練習について行って、ボールを蹴ったのがすごく楽しかったという記憶が今でもあります」

野球経験のある父と幼い頃からキャッチボールをして遊んでいたこともあり、大島は野球とサッカーの両方を習いたかったと話す。けれど、どうしても週末の試合がかぶってしまうため、より楽しいと感じたサッカーを選択し、小学1年生の時に地元の船越サッカースポーツ少年団に入った。「1、2年生の頃は、チームで一番上手いと感じていたので、プロ選手になりたいと思いました。でも、そんな自信に満ち溢れていたのは、サッカーを始めた頃だけです(苦笑)」

 

清水FCの練習に送迎するために、母親が車の免許を取得してくれた

4年生の時に清水FCのセレクションを受けて合格するも、サッカーに前向きにはなれなかったという。「当時、僕が入っていた少年団はあまり強くなかったんです。清水FCには試合で対戦して太刀打ちできなかった選手たちがたくさんいて、最初から肩身が狭かったですね。彼らの能力の高さを目の当たりにし、ここでサッカーを続けるのは無理だ、逃げ出したいとさえ思っていました」。そんな気持ちがプレーや練習にも出ていたのだろう。「素走りの練習でダラダラ走っていた僕を見かねた父から『そんな態度だったら、やらなくていい』と怒られました。後にも先にも父にサッカーのことで怒られたのは、この1回だけです。でも、この時の父のおかげでサッカーに対する向き合い方が変わり、意欲的に活動できるようになったと思います」

一方母も、大島がサッカーに打ち込めるようにサポートをし続けた。清水FCの練習に通うには車での送迎が必要となり、大島の母は仕事をしながらも、そのために車の運転免許を取得し送迎してくれたという。両親は「自分が選んだことを全力でやりなさい」というスタンスだったことから、大島が学校から帰宅後、宿題もせずにサッカーをしていても、勉強しなさいと口にすることはなかったと話す。「逆に何も言われないから、夏休みに宿題が終わらなくて、泣きながら机に向かった記憶があります(笑)」

2つのセレクションを受け、中高一貫の静岡学園に行くことを決意

チームの練習がない日も、暇さえあればボールを蹴る毎日。5年生に上がる時にはふるいにかけられたが、清水FCに残ることができた。「でも、ギリギリで残れたので、チームメイトからは文句を言われたこともありました」

漠然とサッカーを続けていた大島だったが、中学サッカー進路で、中高一貫の静岡学園と出会ったことが転機となる。「静岡学園中学(以降、静学中)サッカー部と清水エスパルスのジュニアユースのセレクションを受けました。両方を体験したことで、静学中でサッカーがしたいという気持ちが強くなったのを覚えています。清水エスパルスのジュニアユースは落ちてしまったけれど、悔しいという思いはなく、静学中でやるしかないと決意しました」

静学中に進学した時のことだ。1人1個サッカーボールが手渡され、そこに目標を書かなければいけないことがあった。大島はチームメイトらが「全国制覇」と書いているのを見て同じ言葉を記したものの、実は本心ではなかったというのだ。「ゴールを設定しても、その過程は明確ではないですよね。昔から、先の目標を決めて目指すよりは、目の前のことをとにかく全力でやるタイプでした。それは、ずっと変わってないですね」

中学の頃は、いくら練習で疲れて帰宅しても、公園に行ってボールを蹴ったり、その日、上手くいかなかったことがあれば一人で振り返りながら練習していたという。「チームメイトより劣っているのは一目瞭然だったので、1日でも早く追いつこうと思って練習していました。学校の練習でミスがあったら、そのままにせず、成功をイメージしながらトレーニングすることも多かったですね」。こうした日々の練習の積み重ねが、大島の技術の高さにつながっているのだろう。

 

常に劣勢に立たされていたけれど、ボールを扱うことは負けたくなかった

高校へ進むと、さらにサッカー漬けの毎日になった。そんな中、クラスの担任の先生と、週に一度交換する日誌のようなものを3年間続けたという。「僕は日記代わりに、毎日それを書いて先生に提出していたんです。ある時、試合に負けた後の日誌には先生から『人生は何クソだと思って常に頑張れ』と記されていました。その言葉は今でも心に残っています」。また、静岡学園で教わった「100万回ボールに触れ」「柔よく剛を制す」という言葉も、プロになった今の支えになっているという。「僕のサッカー人生において静岡学園に出会えたことは大きかったですし、ここで学べたからこそ、ボールを扱う技術が身についたんだと思っています」

高卒ルーキーでプロデビューと、順風満帆な道を歩んできたように見えるも、大きな壁にぶち当たったことはなかったのだろうか。「小中高と進めば進むほど、上手い選手がたくさんいたので、常に劣勢に立たされている感じがありました。誰かに負けているというのが日常だったからこそ、挫折という感覚に陥ったことはないのが正直なところです。でも、僕は身体が大きくない分、ボールを扱うことでは誰にも負けたくないと思っていたし、上手い選手とたくさん出会ったことで、さらにその気持ちに火がついて、たくさんボールに触れました。小学生の時に父に怒られて負けず嫌いな性格だと自覚し、練習を積み上げていったことが、プロ選手になれた一番の要因かもしれないですね」

最後に大島は、サッカージュニアとサカママにむけて言葉を残してくれた。

「僕の経験から言えるのは、子どもの頃はとにかくボールに触れることが大事だということ。子どもたちは、サッカーが楽しいという気持ちを持って、たくさんボールを触ってほしいと思います。僕自身、両親がサッカーに協力してくれたことに本当に感謝していますし、近くで見守ってくれたことが一番記憶に残っています。だから、声をかけることができなくても、お子さんの練習や試合に顔を出してもらえたらと思います。そうすれば子どもは、親にいいところを見せたいと絶対に頑張るはずです。子どもがサッカーを楽しんでいる姿を、親御さん自身も楽しみながら見守ってほしいなと思います」

写真提供/川崎フロンターレ