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【Jリーガーのセカンドキャリア】26歳でレッズのスカウトになるということ―。 畑本時央【前編】

サッカーを仕事にする。それはプレーヤーになることだけに限りません。選手でなくてもサッカーを「続けてほしい」という想いから、footies!/サカママ編集部では、これまで数多くのサッカーに関わる仕事に就く方々を取材し、その仕事内容や取り組みについて紹介してきました。
一方、プロになる夢を叶えたJリーガーたちは、選手生活を終えた後にどのようなセカンドキャリアを歩むのでしょうか?

今回紹介するのは、昨年末J3のグルージャ盛岡(現・いわてグルージャ盛岡)で選手生活にピリオドを打ち、浦和レッズのスカウトに転身した畑本時央さんです。浦和レッズの育成組織で育った彼が、26歳の若さで「スカウト」という立場で古巣に帰還するに至った経緯と決断とは?【文中敬称略】

選手時代の畑本時央さん
ⓒIWATE GRULLA MORIOKA

“プラチナ世代”としてサッカーに明け暮れた幼少期

「浦和レッズユースからスカウトされたのが中3の日本クラブユース選手権。『まだ粗削りだけど、対人にめっぽう強いヤツがいる』という理由だったらしいです」

昨年末、グルージャ盛岡を退団し現役を引退した畑本時央は、自身がJリーグを代表する名門クラブからの誘いを受けた日を、今もはっきり覚えているという。

1992年生まれの27歳。現役を退くにはあまりにも早い年齢だ。しかし畑本は今年2月から浦和レッズのスカウト部スタッフに就任する道を選択。慣れない事務作業に奔走しながら、レッズユースのサポートとスカウト活動のノウハウを少しづつ学んでいる。

同い年のサッカー選手は宇佐美貴史(ガンバ大阪)、柴崎岳(デポルティボ)、昌子源(トゥールーズ)、杉本健勇(浦和レッズ)、大島僚太(川崎フロンターレ)、土居聖真(鹿島アントラーズ)、宮市亮(ザンクトパウリ)と、枚挙に暇がない。いわゆる“プラチナ世代”の畑本は、熊本は大津町、県内随一サッカーの盛んな地域で生まれ、幼稚園年中からサッカーボールを蹴るようになった。

多数の有名選手を輩出してきた“公立の雄”大津高校で知られる同地では、サッカーをするのは「当たり前」の環境。周囲の友だち全員が夢中になってサッカーに明け暮れていた。

2002年日韓W杯を迎えたのは小学生の頃。通っていた学童保育のスタッフルームに設置されたTVを窓越しに眺めていたという。試合は日本vsチュニジア戦。稲本潤一らの眩い活躍を目の当たりした畑本少年は、「絶対にプロ選手になる」と心に誓った。

日本クラブユース選手権で“運命の人”に出会う

中学時代は市内の強豪クラブ「ブレイズ熊本」で、センターバックの中軸として活躍し、中3には夏の日本クラブユース選手権九州予選を一位で通過。全国大会ベスト8まで進出し、冒頭の浦和レッズ強化部(当時)の田畑昭宏スカウトの目に留まった。それは、畑本にとって“運命の人”との出会いだった。

「僕らは街クラブだったから“打倒J下部”でしたよ。九州予選のアビスパ福岡ジュニアユースでの試合はめちゃくちゃ燃えました(笑)。後から聞いた話なんですが、田畑さんはもともとブレイズ熊本のエースストライカーに注目していたらしいのですが、試合を見て判断し『練習会に参加しないか』と僕に声を掛けてくれたんです」

埼玉県のレッズランドで行われた練習会に参加して一カ月後、畑本のもとに浦和レッズユースから正式にオファーが届く。もちろん、チーム加入を後方から強く推薦してくれていたのが田畑スカウトだった。そこから畑本の夢への旅路は加速する。中学3年の2学期の終わりには手続きを済ませ、大津中学からさいたま市の大原中学に編入。U-15日本代表にも選出され、ほんの数カ月で畑本を取り巻く環境は劇的に変化した。

アジア王者のユースチームの一員として

2007年当時、浦和レッズはAFCチャンピオンズリーグを制しアジアの頂点に立ち、ユースチームも高円宮杯U-15を優勝した山田直輝らを中心とした屈指の強豪チーム。トップからアカデミーまで、Jクラブの中でも有数の実力者が集う場だった。

「レッズユースの印象は、速い・上手い・強い。練習では常に吹っ飛ばされていました。足がつっても周りは飄々としているし、『すげえところに来ちゃったな』と思いました」

そんな環境でも、持ち前の適応力で1年生からスタメンでプレーした畑本だったが、夏を迎える頃にはBチームに降格。ここまでトントン拍子で階段を上り続けていた畑本にとって初めての挫折だった。

「中学、高校でチヤホヤされて天狗になっていたんでしょうね。ユースなのに学校の友だちはレッズのトップチームに行くんだと思っているし(笑)。1年から上手い人たちと練習していたから、自分も上手いんだと勘違いしていました。後片付けとか1年生がやるべき仕事もやっていなかったし、色々と見抜かれていたんでしょう。そんなBチームで不貞腐れているような僕を救ってくれたのも、レッズユースの監督・コーチでした。色んな気付きを僕に与えてくれて、やるべきことに導いてくれた。本当に人に恵まれていたと思います」

1年次の終わりに再びAチームに復帰した畑本は、後にキャプテンとしてチームを引っ張る存在となっていく。ケガから復帰した2年次には、2008年の日本クラブユース選手権得点王の重松健太郎を抑え、FC東京U-18に勝利。世代を代表するストライカーを抑え込んだことは大きな自信となり、畑本自身「ユースで最も印象に残った試合」として挙げている。

トップチーム昇格はわずか一人。高校3年で下した選択は……

レッズユースでは3年次に上がるタイミングで面談がある。トップチームに昇格できるのか、それとも大学に進学するのか、進路に関する内容だ。そこで畑本が伝えられた内容は、ユースからのトップチーム昇格はわずか一人。いつもセンターバックでコンビを組んでいた岡本拓也のみ、ということだった。

「チームに愛着があったし、当然レッズでプロになりたかった。でもそれが適わないなら、僕は大学ではなくプロに行きたかった。まだ夏の日本クラブユース選手権、冬の高円宮杯が残っていましたから、アピールできるチャンスはあると思っていました」

畑本の目論見通り、クラブユース選手権後の帰省時に参加した練習会を経て、アビスパ福岡から正式にオファーが届く。2002年日韓W杯のチュニジア戦から8年、抱いていた夢が成就した瞬間だった。

「九州やし、地元やし。(オファーを)断る理由はなかったです」

地元の九州にあるアビスパ福岡でキャリアをスタート

プロ一年目の2011年、アビスパ福岡は開幕から9連敗。8月の監督解任による体制変更から持ち直すことなく最終順位17位でシーズンを終えJ2降格となった。不振のチームのなかでルーキーの畑本に出場機会はなく、Jデビューは翌年の第3節の湘南ベルマーレ戦。雨のShonan BMW スタジアム平塚にて、前半で退場者が出たことによる途中交代だった。地に足がつかない状態で臨んだデビュー戦は、「いいとこなし」で1-3の敗戦。次節の京都サンガ戦でも終了間際の途中交代。十分な出場機会を得るにはまだ時間を要するかと思われた矢先、翌週のホームゲームでチャンスが巡ってくる。レギュラーのセンターバックが負傷し、控えの選手もヒザを怪我したことで、繰り上がりで畑本に出番が回ってきたのだ。

しかも相手は首位争いを続ける好調のジェフ市原・千葉。イレギュラーな途中出場ではなく、試合の3日前から出場を伝えられていた。

「このチャンスを絶対にモノにする」

その決意が逆に畑本の精神状態を極限まで追い込んでいた。

「もう(緊張で)戻しそうでした(苦笑)。顔色がヤバかったみたいでウォーミングアップの時に10番の城後(寿)さんが声を掛けてくれてました。『お前が掴んだチャンスだ。やりたいようにやれ』と。前田浩二監督も『お前がどんなプレーをしても俺が責任とるから』とおっしゃってくださって、覚悟ができましたね」

試合では好調を続けていたジェフの攻撃陣を抑え込み、0-0の引き分けとなった。無失点の立役者となった畑本の評価も上々で、翌日の西日本新聞でも大々的に試合結果が報じられた。

「そこから10試合連続で試合に出られるようになりました。契約を結び直し、給料もポーンと上がりましたね。そうしたら先輩から『給料を下ろしてこい』と言われ、20万円でゴルフセットを一式買わされました(笑)。当時のアビスパは“アクティブ レスト”と言って、オフにゴルフでコースを回るのが慣習になっていて、朝早くに起きて先輩たちを迎えに行っていました。僕は一向にスコアが上がらなかったですけどね(笑)。アビスパではサッカー以外の楽しいことも色々経験させてもらいました」

プロ2年目でコンスタントに試合に出場することになり、Jリーガーとしての振る舞いを学ぶことで、畑本の視界はどんどん広がっていった。20歳の若き有望株の未来は、ここから花開いていく――。本人もそう信じて疑わなかったはずだ。

そうして迎えたプロ4年目。J2下位に低迷するアビスパ福岡から、畑本の期限付き移籍が発表される。

「2014年以降、自分のプランは壊れました」

これまで恵まれた環境で築き、積み上げてきた畑本のサッカー人生。その歯車が、次第に狂い始めていく。

畑本時央さん

――後編に続く――