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高橋秀人ママ「料理は好きだったから苦ではなかった」

高橋敦子さんの長男は、Jリーグでも活躍している高橋秀人選手。当時のエピソードや先輩サカママとしてのアドバイスを聞いた。

何かひとつ支えるものを持てるといいなぁと願っていたら、それがサッカーだった

――当時はどんなお子さんでしたか?

「時間をかけて、コツコツと努力するタイプですね。
泣き虫だったので、男の子としては困ったなと思っていました。
社会に出てからも自活できる人間にならなければいけないから、それにはスポーツが良いだろうと。それがサッカーだったんです。

でも、同じチームの子にはお兄ちゃんたちがいて、サッカー経験のある次男とか三男の子ばかり。
秀人も運動神経は悪い方ではありませんでしたが、最初は全然歯が立たないんですよ。

その当時、よく私のところへ来て、『お母さん、パスが来ない』『ボールが蹴れない』って言っていましたが、それも当たり前ですよね。
長男だし、サッカーをやったことがなかった秀人が、いきなりできるわけがない。だからこそ、本人が頑張ったところもあると思いますし、頑張りを評価してくれる良い監督やコーチに巡り会ったことも大きかったと思います」

――そのようにお子さんが相談にきた際、どのように対応していたのですか?

「ボールが触れないと言ったときは、『サッカ ーはボールを取りに行かなきゃ』と。
パスが来ないときは、『パスが来るところに行かなきゃねぇ』と言っていました(笑)。信頼されないとパスはもらえないし、もらえるところにいないことが原因でしょと。
本人は『わか ったぁ』と言って帰っていきましたよ(笑)」

――親子の会話は多かったのですか?

「男の子は5~6年生くらいになると、最低限の言葉を交わすだけで、母親とは話さなくなると言いますよね。
でも、うちはサッカーをしていたおかげで、そういうことはありませんでした。『明日の集合時間は?』とか『お弁当は何にする?』とかいうことは、会話がないと成立しませんからね。

それはスポーツをやっていたおかげですし、男の子の中では結構、母子で話す方だったと思います」

――当時から栄養バランスを考えられた料理やおやつが手作りだったと、秀人選手から伺いましたが?

「特別なことは何もしていませんよ(笑)。
ただ、料理をすることが好きでしたし、手間暇をかけて作ることが好きだったんです。

限りなくお金をかけられるわけではありませんでしたが、バランス良く食べさせることは考えていました。良質なタンパク質を食べさせるといいかなと思っていたので、肉に代わるものであれば大豆や魚。
だから、煮物は豆類やひじき、切り干し大根などを使いましたし、例えば、から揚げをたくさん作ったら、半分はそのまま食べて、残りは次の日にマリネにする。
そういう工夫をすることが、私は好きだったんですよ。
おやつも、パンやケーキを自分で焼くことが好きだったので、生クリームを使わず、スポンジケーキなどを作っていました。

中学生くらいのときの秀人は、頭の中に食品成分表があるような子でした。
特別にサッカーが上手だった方ではないので、技術を食べ物や、体を大きくすることで補おうというような発想もあった気がします」

――仕事を持っている親は、なかなかそれだけのことをするのは難しいかもしれません。

「確かにフルタイムで働いていると難しいかもしれませんね。
私は当時、自宅で和裁士をしていたので、時間の工夫がしやすかったんです。

秀人が高校の時、学校が招いた当時の日本代表の管理栄養士の方から、代替物を利用してもいいと言われました。
例えば、朝食に牛乳と果物をつけるといいけれど、果物はみかん一個でもいいし、オレンジジュースでもいいと。牛乳がダメならヨーグルトというように、バランスを保てればいいと。
これは、忙しい方でも活用できると思います」

サッカーを始めた頃は、周りの子どもたちの方が上手く、なかなかボールにも触れなかった。
しかし、努力を重ねていくとチームの中心となり、選抜や群馬県中の選手が集まる図南ユースでも活躍。コツコツと取り組むタイプの子どもだった。

継続できることがあれば頑張れる

――チームのお手伝いなどもあったと思いますが、どのようなことをしていましたか?

「お当番はありましたね。ただ、都合がつかない家の子が参加できないというのもおかしいので、頼み合ってできるようにしていました。
頼むということは、子どもたちが自分で自分のことをしなければならないので、過保護になりすぎないように皆さんで工夫していましたね。

寒い時期は大きな鍋におでんや豚汁を作って、持って行ったこともありますが、それも負担にならない程度。
子どものこととなると、どうしてもエスカレートしてしまうこともあるので、そこはケジメをつけて、お母さんたちと相談しながらやっていました」

――試合も観に行っていたと思いますが、当時の印象深いエピソードはありますか?

「当時はメンバーが揃っている強いチームで、毎年キャプテンや背番号10番を誰にするかは、子どもたちにヒアリングして最終的に監督が決めていました。
それで秀人が10番をつけたのですが、小学生総体の準決勝と決勝をやる日に、私が厳しいことを言ってしまったんです。『これで結果を出せなかったら10番を返しなさい。欲しい子はたくさんいるし、ここで結果を出せるような人にならなきゃダメよ』と。
本人は『わかった』と言って、頑張 って優勝したのですが、終わってから私に『これで10番を返さなくて大丈夫だね』と言ってきた(笑)。

技術のことではなく、責任感の部分などで厳しいことは言ってきたので、かわいそうかなと思うこともありました」

――落ち込んで帰ってくることがあった場合は、どのように接していたのですか?

「秀人の進路は、必ずと言っていいほどスタートは挫折なんです。
小学校のときは周りが上手な子ばかりでしたし、図南ユースでも希望のボランチでプレーさせてもらえず、色々なポジションで起用されて悩んでいた。

でも私は内心、最初にガツンとやられたらいいと思っていました(笑)。
ダメならダメでいいから、狭いところではなく広い世界を経験する。ガツンとやられるのも、早い段階の方がいいですからね(笑)。

ただ、そこで頑張ったから今につながっている部分があると思います」

――プロになるには、特別なことをしていたのではと思うサカママも多いと思いますが?

「そう聞かれることもありますが、プロなんて考えたこともありませんでした。
私はサッカーに詳しくないし、自分から話すことで意思疎通をしてサッカーをやるような子だったので、大学進学の時点では教員になるとばかり思っていました。
技術があるからプロになったわけのではなく、本人の努力と周りの方のおかげで今がある。

だから、秀人に関わるすべての人からもらったものを100としたら、101にしてお返しできる人になってほしいんです。
将来を考えて選択肢を広げるためにも、まずは勉強で、その次にサッカー。そこは普通に育児をしていただけです」

――最後にサカママの先輩として、読者の皆さんへアドバイスをお願いします。

「私は神様が何かひとつ、やり通せることをこの子に与えてくれないかなと思っていたんです。
その子らしい支えていけるものをと考えて、それがスポーツでサッカーだった。

ひとつのことを続けていれば、つらいことがあっても頑張れることがありますよね。
結果的に、あの子は少ない可能性の中からチャンスを掴みましたけれど、それをサポートできたのは良かったと思っています。

私も子どもには多少の干渉をしたかもしれませんが、それはすべてを任せてしまったら、子どもの知識の中でしかできないので、秀人もサッカーを選んでいたかはわからない。
だから、子どもの適正を見てあげて、ちょっとその方向へ仕向けてあげるのはアリかなと思います」

※この記事は過去に読者のみなさまから反響の多かった記事を厳選し再録したものです。(2013年6月1日掲載)

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