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【Jリーガーのセカンドキャリア】26歳でレッズのスカウトになるということ―。 畑本時央【後編】

サッカーを仕事にする。それはプレーヤーになることだけに限りません。選手でなくてもサッカーを「続けてほしい」という想いから、footies!/サカママ編集部では、これまで数多くのサッカーに関わる仕事に就く方々を取材し、その仕事内容や取り組みについて紹介してきました。
一方、プロになる夢を叶えたJリーガーたちは、選手生活を終えた後にどのようなセカンドキャリアを歩むのでしょうか?

今回紹介するのは、昨年末J3のグルージャ盛岡(現・いわてグルージャ盛岡)で選手生活にピリオドを打ち、浦和レッズのスカウトに転身した畑本時央さんです。インタビュー前編では高卒でプロになる夢を叶え、アビスパ福岡でコンスタントに試合に出場するようになるまでをお伝えしてきました。その後、畑本さんのサッカー人生を大きく変えた、ある「選択」とは?【文中敬称略】

選手時代の畑本時央さん
ⓒIWATE GRULLA MORIOKA

環境を変えるべく、自ら移籍を希望し福岡から金沢へ

2011年のJ1降格から低迷を続けていたアビスパ福岡は、監督、選手ともに流動的な状況が続いていた。前田浩二監督からマリヤン・プシュニク監督体制となって2年目の2014年、畑本のツエーゲン金沢(J3)への期限付き移籍が決まる。

J2からJ3へ。フィールドこそ下部リーグへ移ったが、当時のツエーゲン金沢は森下仁之監督の下、JFLからJ3参加を承認された1年目のシーズン。チームとして大量補強に成功し、勢いに乗っていた。高卒プロ4年目と、まだ若い畑本にとってネガティブな要素より、むしろ出場機会を得るためにも前向きな移籍だったといえる。何より、今回の移籍の発端はチームからではなく、畑本本人からの希望であった。

「(移籍は)自分から言いに行きました。すべては僕のせいですが、若い選手にとって福岡には誘惑がありすぎました。選手として伸び悩みも感じていたし、監督も外国人になってコミュニケーションも上手くいかず、環境をガラっと変えたい想いが強かった」

ツエーゲン金沢はリーグで躍進を続け、J3参入1年目にしてJ2昇格は射程圏内。強固なディフェンスで失点も少なく、好調を続けるチーム状況にあって、新参DFの畑本はもがき苦しんでいた。

「チームも強かったから試合にも負けませんでした。当然、負けなければディフェンスラインを変える必要がない。レンタル移籍で入ってきた僕が、そこに食い込むには、練習でアピールするしかありませんでした。でも、『上から来た』という変なプライドが邪魔して…。『俺が出たら勝てる』って思っていたけど、試合には出られないし、すべてが噛み合ってなかった。金沢はバイトをしている選手もいて、『Jリーガーなのにバイトなんてするの?』って思っていました。不真面目とまでは言わないけど、反抗期というか、ひねくれていましたね」

キャリアを開花させるために決断した移籍は、思い描いていたものとは真逆の方向へと向かっていた。そんな状況下、畑本にとって起死回生を期す大一番が巡ってくる。

選手時代の畑本時央さん
ⓒIWATE GRULLA MORIOKA

勝負を懸けた大一番に感じたチームとの温度差

天皇杯2回戦となるガンバ大阪(J1)戦で、畑本の先発出場が決まったのだ。

「この試合ですべてを変えてやろうと思ってた。とにかく気合が入っていました」

後にこの年の天皇杯を制し、国内三冠(J1、ナビスコ杯)を達成するガンバ大阪は、畑本と同年の宇佐美貴史ほか、主将の遠藤保仁など主力メンバーが勢ぞろい。ここで“ジャイアントキリング”を達成すれば、風向きは一気に変わったことだろう。しかし、J2昇格に高いプライオリティを置いていたツエーゲン金沢は、“主力温存”の選択をとった。

「J3の1年目でみんながリーグ最優先だった。でも、僕はこの試合に勝って今の状況を変えたかったし、死に物狂いでした」

戦う前に勝負はおおよそ決まっていた。試合は畑本の決意とは裏腹に、1-5で完敗。宇佐美が先制点を挙げ、倉田秋がハットトリックを達成し、万博記念競技場は大いに沸いた。

「1・5軍で臨んだ結果、ボロ負けでした。それなのにチームは『相手はガンバだし。負けちゃったよ』って感じで。でも、僕はめちゃくちゃ悔しかった。個人としては相手を抑え込めていたし、『お前らいい加減にしろよ!』って…。その年、人生で一番生活が荒れました」

選手としての輝きを失っていく畑本とは対照的に、首位争いを続けたツエーゲン金沢はリーグ終盤の7連勝で独走態勢に入り、リーグ優勝を達成。J3参入1年目でJ2昇格を決める。そんな最中、畑本はレンタル元のアビスパ福岡との契約満了と同時にツエーゲン金沢での籍を失った。

「もし、時計の針を戻せるなら金沢時代に戻りたい。2014年はキャリアで最も後悔しています。今でも自虐で“経歴バカ”って言うんですけど、最近ネットで自分の経歴を見るとやっぱりすげえなって(苦笑)。2014年はもちろん、その前から頑張りが足りなかったのかなって。もっとストイックにやっていれば、J1でプレーできたのかなって。今でもそう思っています」

岩手で過ごした4年間で得られたもの

現役引退も考えた畑本だったが、地元熊本の中学からの友人である守田創(現・栃木ウーヴァFC)からの誘いもあり、Jリーグ合同トライアウトを経て、グルージャ盛岡(J3)への完全移籍が決定。当初は慣れない東北の地で「戸惑いもあった」と言うが、結果的に畑本はこのチームで4年間、キャリアで最も長い時間を過ごすことになった。

「グルージャ盛岡では他では経験できないことができたと思います。選手生活とは別に学童保育で仕事をしていて、午前中に練習が終わったら、小学生の放課後の面倒を見るんです。行事があるとオフの日でも行っていました。夏休みキャンプでは、テントを張って、カレーをつくって、キャンプファイヤーではお化けの担当をして、子どもが寝るのを待って帰る。子どもたちは本当に生意気だけど(笑)、ストレートなんですよ。サッカーが好きな子は、『グルージャまた負けたね』ってド直球で言ってくる。『トキは何で試合に出ないの? 出られないなら辞めれば』って。正直ムカついたけど(笑)、それが刺激にもなりましたね。学童のサッカー教室も年一回やっていて、放課後児童支援員という資格を取ることもできました。盛岡では本当に人に恵まれましたし、グルージャには感謝しかありません」

選手時代の畑本時央さん
ⓒIWATE GRULLA MORIOKA

“運命の人”から届いた一本の電話

昨年末、グルージャ盛岡を退団した畑本は地元の熊本にいた。未来を考える束の間の帰省で、方向性はあくまでも現役続行。実際に数チームから誘いの話もあったと言う。その中のチームからの返事が予定されていた12月24日の前日に、畑本の下に一本の電話が鳴る。着信通知の相手は見慣れた名前が表示されていた。“運命の人”浦和レッズの田畑昭宏スカウトからだった。

「『熊本に来ているから一緒に飯でも食おう』って。実際に行ってみたらレッズの上司の方もいて、『俺らとスカウトやらないか?』と。突然のことでビックリしましたよ。もともと自分はスカウトされた側だったし、興味はありました。でも、まだ26歳だし、即答はできなかったです」

現役でやれるだけやって、もう足が動かないというところまでやることが理想だったという畑本。まだ選手生活を続ける覚悟もあり、年齢としてもサッカー選手として最も脂が乗る時期といえる。それでもフロントに回る決意を固めたのは“古巣”のレッズが理由であったことは間違いない。

「実は田畑さんが最初にスカウトした選手が僕だったらしいんですよ。周りからはなんで辞めたの?って言われるけど、サッカーが嫌いなわけじゃない。サッカー、好きですよ。でも考え方を変え、今後のセカンドキャリアを考えました。現役を辞めて後悔がないわけがない。でも、その後悔を生かせないかと。レッズユースから、今に至るまでの自分の体験談を若い子たちに伝えていく。それは自分にしかできないことだと思います」

スカウトをされる側から「する側」に立場を代えるということ

今年の2月から再び浦和レッズの一員となった畑本は、住居も埼玉に移した。所属は強化部から独立した新設の「スカウト部」。レッズは昨年11月から同部内の育成機能とスカウト機能をそれぞれ独立させ、各々に責任者を置く体制変更を行った。役割、責任を明確化させることで、各々の成果を最大化させることが狙いだ。未来に向けたチーム強化の施策として、スカウト部はチーム内でも注目されている。現状は40、50代のベテランが周囲を固める中、ひと際若い畑本は「スカウトの育成」という部分でも、周囲の期待値は高い。

「社会人1年目です。早くパソコンも覚えないと(笑)。平日はユースの練習のコーチ、お手伝いをしながら、スカウト活動としてユースに上がる中学3年生を見ています。埼玉の県リーグに行ったり、九州の中学の大会を見に行ったり。何もかもが新鮮ですよ」

“目利き”のプロフェッショナルであるスカウトは、何より経験が重要な職種だ。まだ27歳と若い畑本にとって、スカウトに必要な要素を吸収する時間は存分にあるといえるだろう。そんな畑本が思い描く理想のスカウト像とは何なのだろうか?

「かつての自分がそうであったように、地方にいても輝いているヤツにチャンスを与えられるようになりたい。有名な大会に出ていない、誰も注目していない。でも、めちゃくちゃ光ってる選手って探せば絶対にいると思うんです。そしてそいつを絶対にプロに導きたいです」

熊本でサッカーを始め、“スカウト”を受けてプロの世界に足を踏み入れた。決して順風満帆な選手生活ではなかったかもしれない。しかし、その経験を排除するのではなく、後進の育成ために活かす道を選んだ。スカウトされる側から、「する側」に立場を代え、今この瞬間も、畑本は輝く原石を求めて全国を走り回っている。

畑本時央さん