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【SPECIAL INTERVIEW】川崎フロンターレ 山村和也(第25回全日本少年サッカー大会 決勝大会出場)

今シーズン、川崎フロンターレで活躍をみせた山村和也選手。元日本代表でもある山村選手は、小学6年生の時、長崎県代表「桜が丘SSC」のメンバーとして、第25回全日本少年サッカー大会 決勝大会に出場しています。そこで山村選手に、ジュニア時代の話や全国の舞台で感じたこと、両親のサポートについてお聞きしました。

サッカー経験のない小学校の先生が真剣に向き合って指導してくれた

 
小学校の仲間と桜が丘SSCでプレーしていた頃。トロフィーを持っているのが山村選手。

― まずは、サッカーを始めたきっかけを教えてください。

「隣の家のお兄さんがサッカーをやっていた影響で僕も兄もサッカーを始めました。小学3年生の時に、地元(長崎県長崎市)の桜が丘小学校の部活動だった桜が丘SSCに入部したんです。足が速かったこともあって、当時のポジションは右サイドハーフ。マラソン大会で1位を取るくらい、持久力には自信がありましたね」

― 桜が丘SSCはどんなチームだったんですか?

「チームには桜が丘小の子しかいないので、最初は市の大会での優勝を目指していたほどのレベルだったんです。僕自身、4年生の頃はBチームでしたしね。指導してくれていたのも小学校の先生でサッカーをやったことのない方もいて。でも、いつも先生たちが一生懸命で、真剣に向き合ってくれたので、僕らもそれに応えたいと思って頑張って練習してましたね。5年生になると、サッカー経験のあるコーチにも指導してもらえるようになりました」

― 当時は、どんな練習をしてました?

「家の前にある公園の壁にむかって、よくボールを蹴っていました。兄もサッカーをやっていたので、一緒にリフティングの競い合いをしたり。当時、リフティングが1500回以上できたらマクドナルドのワッペンがもらえるというキャンペーンがあったんです。それが欲しくて、とにかく必死に練習したので、リフティングが上手になりましたね(笑)。チームの練習で覚えているのはドリブル練習。校庭のトラックをドリブルしながら周る練習をひたすらやったのが身になったと思います」

― とはいえ、強豪ではなかったチームがどのように成長していったんですか?

「ありがたいことに、6年生の時、たまたま上手い子が多く集まって、勝てるようになったんです。長崎県内では負けたことがなかったですね。でも、九州大会、全国大会に出ると、なかなか勝つことができなくて、井の中の蛙だったんだと思いました。それに、たくさんの上手い選手を目の当たりにすることで、挫折のような感覚をいつも味わってましたね。でも、こんなにもすごい選手がいるんだから、もっと頑張らないといけないと思って、さらに練習するようになりました」

― チームで勝つためには山村選手だけでなく、まわりの選手も伸びていかないと難しいですよね。

「比較的、頑張っているチームではあったんですけど、とくに向上心が高い選手が多かったと思います。みんな中学で強いチームにいきたいと思ってましたからね」

― 当時、ご両親は、どういったサポートをしてくれてましたか?

「毎週、試合がある度に、車で会場まで連れてってくれて、両親ともにいつも試合を観てくれました。父は野球経験者で、サッカーのことはあまりわからなかったのか、サッカーに対して口を出すことはなかったですね。でも、あまり言われないくらいがちょうどよかったと思っています」

東京まで応援しにきてくれた両親 
1試合でも勝つ姿をみせたかった

― 全日本少年サッカー大会 決勝大会(以下、全少)は意識していましたか?

「全国大会に行ったことなんてなかったので、出れるとは思ってなかったですよね。県大会の決勝相手は、今でも覚えている相浦西少年サッカークラブ。強豪チームに勝つことができたので、すごく盛り上がりましたね。小学校全体で応援してくれていたので、ほんとに大騒ぎで、僕らはすごいことしたんだって思ったほどです(笑)」

― 当時、全少の会場はよみうりランド(東京)でしたよね。

「大会前に宿舎に集まった時、ラモス瑠偉さんが来て話をしてくれたんです。その頃、長崎にはJ リーグのチームがなかったのでプロの選手に会える機会も滅多になくて。すごく感動したし、みんなで盛り上がったのを覚えています。初めて見る人工芝のピッチ、プロが使っている施設、とにかくすべてが新鮮でした」

― 全国の舞台で、力は発揮できました?

「全少の2、3週間前に足を怪我してしまったんです。だから、試合に出場できるかどうかの瀬戸際だったんですけど、ギリギリ間に合って全試合に出ることはできました。ただ、思い切り自分らしいプレーができなくて、後悔はすごく残ってますね。予選リーグは2敗1分け、1勝もできずに終わってしまって、何もできなかったという感覚しかないですね」

― ご両親も東京まで応援に?

「2人とも応援に来てくれたので、いいところをみせたかったですね。やっぱり浮足立っていたり、全国の舞台に立ったことで、満足していた面はあったかもしれないですね。両親は全少に出ることをすごく喜んでくれていたので、1試合でも勝てていたらと今でも思います」

― 山村選手にとって、全少はどんな大会でした?

「世界を知るじゃないですけど、上手い選手がたくさんいることを感じることができた大会だったので、上を目指していくならもっと努力をしないと駄目だと思いました。いろいろな刺激をもらえたし、その先をみせてくれた大会だったと思います」

他の人より練習しないと上手くならない 。自信を失った時も、とにかく努力した

 
Photo: Getty Image
U-18以降、各年代の日本代表に選出。U-23日本代表時にはロンドンオリンピックに出場。

― プロになることは、当時から意識していたんですか?

「全国大会に行けるチームでプレーできたことで、頑張ればプロになれるかもしれない、プロになりたいという思いが芽生えていきました。桜が丘SSC にいたからこそ、視野が広がったと思っています」

― 小学校卒業後は、国見中学校、そしてサッカーの名門である国見高校へと進まれましたよね。

「中学に進学する時は、いろいろな学校から声をかけてもらった中で、国見中に決めたんです。高校は、国見高校という選択肢しか僕にはなかったですね。両親はいつも反対することなく、僕がやりたいようにさせてくれて、サポートしてくれました」

― サッカーエリートの道を進む中で、挫折したことってありますか?

「高校の時は、ほんとに上手くいかなくて、サッカーへの自信を失っていた時期もありました。思っているプレーができないことで、メンタル的にも弱くなって。でも、そんな時こそ、とにかく練習をしましたね。朝練よりも早くボールを蹴ったり、自主練をたくさんしたり。人よりも練習しないと、上手くはなれないと思ったので、とにかく努力しました。中途半端に終われないという気持ちが強かったのもあって、高校3年間は、やれるだけやろうという気持ちでやっていました」

― だからこそ、U-18以降、各年代の日本代表に選出されるなどの活躍につながっていくんですね。最後に、全国の舞台を目指すサッカージュニア、そしてサカママにメッセージをお願いします。

「小学校の時に全国大会に出ることは記憶に残りますし、いろんなことを感じたり、みえてくると思うので、サッカーを頑張っている子どもたちは、全国大会出場、そして優勝を目指してほしいと思います。また、子どもたちは、お父さん、お母さんの支えがあってこそ伸び伸びとサッカーができるので、お子さんのサポートをしっかりしてあげてほしいと思います。子どもたちは、きっと感謝しているはずですから」


写真提供/川崎フロンターレ