Jリーガーたちの原点「柴崎 岳(鹿島アントラーズ)」
サッカーをやりたかったので、宿題はとにかく早く終わらせた
鹿島アントラーズで司令塔として活躍し、今年1月にオーストラリアで開催されたAFCアジアカップにも出場するなど、日本代表でも主力に定着しつつある柴崎岳選手。高校生の頃にはU-17W杯に出場し、全国高等学校サッカー選手権大会では準優勝を経験するなど、常に注目を浴び続ける柴崎がサッカーを始めたのは、両親、そして2人の兄の影響が大きかったという。「兄2人がサッカーをやっていて、父も母もサッカーを見るのが好きだったので、自分も自然とボールを蹴るようになりました。小さい頃は兄貴とボールを蹴ったり、1人で壁当てをしたりしていて、小学1年生の頃から地元の少年団で試合に出るようになりました」
ピッチの中央で丁寧にボールを扱い、正確なパスで攻撃をコントロールするのが柴崎の真骨頂だが、そのプレースタイルの原型はこの頃、兄たちとの練習で形作られたという。
「小学生時代は基本技術を身に着けるための練習を多くやっていましたね。一番上の兄とは9歳離れているので、まともにやっても勝てない。だからインサイドキックやインステップキック、トラップなど、基本的な技術を教えてもらっていました」。長兄との練習で習得した技術を試すのは、次兄とのマッチアップだ。「3歳違いでそれなりに年齢が近いので、対人プレーや1対1など、実践的な練習をしていた記憶があります」
柴崎は2人の兄から“特別トレーニング”を受けつつ、地元の野辺地SSSでもサッカーに明け暮れる生活を送っていた。「夏休みの宿題などは、学校で宿題をもらったその場で広げてやり始めて、最初の3日間ぐらいでやりきりました。サッカーをやりたかったので、宿題はとにかく早く終わらせていました」。本人がそう回顧するほどサッカーに打ち込んだだけあり、めきめきと力をつけ、頭角を現していく。「当時は今より前目のポジションで、得点に絡むようなプレーをガンガン仕掛けていくタイプだった」そうで、小学6年生の頃にはチームを県大会優勝に導くなど、青森県内では知られた存在となっていった。
やりたいことがはっきりしていて、そのための選択肢もはっきりしていた
チームの中心として試合に出場し続ける彼をサポートしたのは、母親の大きな愛情だった。「試合はよく見に来てくれましたね。来てくれなかった試合はないんじゃないかな。すべての試合を見に来てくれたと思います」。小学生年代の大会は1日がかりで行われ、1チームあたり2、3試合やるのが普通だ。朝早くに試合会場へと行き、アップをして試合をこなし、休憩した後に気持ちを切り替えてまた次の試合に臨むというせわしない1日の中、柴崎の楽しみは昼食だったという。「1日2、3試合するんですけど、その間に食べる弁当がすごくうまかった記憶があります。母が朝から作ってくれた弁当を、昼に食べるのが楽しみでした」。早朝に起きて弁当を作り、息子の身支度をさせて送り出し、自らも会場に向かって声援を送る。母親にとっては柴崎本人以上にハードスケジュールな1日だったことは想像に難くないが、「サッカーはそんなに詳しくないけど、応援し、サポートしてくれる存在だった」という母の支えがあったからこそ、柴崎はサッカーに集中し、試合にすべてを注ぐことができたのだろう。
「やらされている」という感覚は自分の中では全くなかった
青森山田に進学した柴崎は、今まで以上にサッカーに打ち込める環境を手に入れ、それを最大限に利用していった。トレーニングもスケジュールも、小学生時代とは比べ物にならないほど厳しくなり、時には理不尽さを感じることもあったかもしれない。しかし、柴崎は常に前向きな姿勢でサッカーに取り組んでいった。「サッカーを『やらされている』という感覚は、自分の中では全くなかったですね。仕方なくやろうかな、という感じではなかったです」
そんな柴崎にも、一つだけ苦手なものがあった。それは、走ること。フィジカルトレーニングが好きだという選手を見つけるほうが難しいとは思うが、確かに柴崎はフィジカルの強さを前面に押し出して戦うタイプではない。しかし、常に冷静に、表情をあまり崩さずにプレーしているように見えて、実は豊富な運動量も備え、激しいボディーコンタクトも苦にしない。苦手なフィジカルトレーニングを「自分のためになる」と信じてやり続けたことが、彼にとっての大きな財産となっているのだ。
僕にはサッカーがあって、それを本気でずっとやってきた
中学生時代には「舵取りというか、ゲームメークも含めて攻撃を組み立てていくスタイルになった」という現在のスタイルを確立し、稀代のプレーメーカーとして順調な成長を遂げていく。柴崎と同じ1992年生まれの選手たちは“プラチナ世代”と呼ばれ、後にプロ入りする選手が日本中にあふれ、しのぎを削っていた。柴崎の活躍ぶりはその中でも群を抜いており、2009年11月に行われたU-17W杯では日本の10番をつけて出場するなど、まさに“プラチナ世代の旗手”として存在感を放っている。今では日本代表でも主力になりつつあり、2018年のロシアW杯では、司令塔として日本を牽引することが期待されている。
そんな柴崎を突き動かしているのは、サッカーに対する激しいまでの情熱だ。冷静沈着なプレー、そして取材時の落ち着き払った対応から、クールなイメージのある柴崎だが、言葉の端々には小学生時代から変わらぬ“サッカー小僧”ぶりが感じられ、実際は熱いハートの持ち主であることが分かる。その性格は、「負けたくない一心でやっていた」という小学生時代から変わっていない。
最後に、柴崎はサカママに対するメッセージを残してくれた。「僕にはサッカーがあって、それを本気でずっとやってきました。両親からは、ときに“本気でサッカーで生きていくのか”と問われながらも、自分の選択で進んできました。だから子どもたちにも、何がしたいかという自分の意思をもってほしいし、お母さんやお父さんは、どんな方法でもいいので、それをサポートしてあげてください。子どもの自主性は勝手に身に付くものではなく、親御さんが育てるものでもあると僕は思っています」
取材・文/池田敏明 写真/ 足立雅史
2015年3月発行の13号掲載