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Jリーガーたちの原点「柿谷曜一朗(名古屋グランパス)」

セレッソ大阪のバスと遭遇したことが、サッカーを始めるきっかけに

昨シーズンから名古屋グランパスでプレーする柿谷曜一朗。セレッソ大阪の育成組織で育った柿谷は、高校在学中の16歳でトップチームとプロ契約。2013年から7年間、セレッソ大阪でエースナンバー「8」を背負いチームを牽引、2014年には日本代表としてブラジルW杯も経験した。

そんな柿谷がサッカーを始めたのは、4歳の頃。「これまで『Jリーグの開幕を見て、プロサッカー選手を目指すようになりました』と言ってきたんですけど、実は、本来のきっかけはそうではなかったんです(笑)」。柿谷自身、記憶が曖昧ではあるものの、家族旅行での出来事がきっかけになったという。「僕ら家族が乗っていた車の横を、セレッソ大阪の選手が乗っているバスが通ったんです。両親がそのバスにはすごい選手が乗っているんだよと話してくれたから、興奮して車の窓を開けて、そのバスに向かって手を振ったんですね。するとゴールキーパーのジルマール選手が手を振り返してくれて。『僕はこのチームに行きたい』と言ったみたいです(笑)」

セレッソ大阪のスクールに通うようになる中、小学1年生の時に見た「セレッソ大阪vs東京ヴェルディ」の試合に衝撃を受け、プロサッカー選手なりたいという思いが芽生えたと語る。低学年の頃は、ボールを持てば誰にも渡さずドリブルを続けてシュートしていた柿谷少年だったが、学年が上がるにつれプレースタイルは少しずつ変わっていった。「中学年になると、5・6年生と一緒に練習をしていたので体格の差もあり、今までのプレーでは通用しなくなったんです。それで、技術を磨いたり、周りを使うことも覚えるようになりました」。当時はまだSNSやYouTubeもなく、情報量が少ない時代。そんな中で必死でイメージし、練習メニューを自分で考えていった。「絶対に誰もしないだろうと思う難しい練習を考えて、身につけるんだと思いながら、日々、取り組んでいました。それが創造性にもつながったのかなと思います」。4年生の時にナショナルトレセンに選出されたことでプロへの意識が一気に高まり、小学校の卒業文集には「16歳でプロになる」と決意を記していたのだ。

両親はサッカー経験者ではないから、練習や試合の結果は伝えなかった

 

「母の手厚いサポートがなかったらもっと早くにサッカーをやめていたかもしれない」と語るほど、柿谷を全力で支えたのが母だった。「学校が終わると車で校門の前まで迎えに来てくれて練習に行ったり、サッカーをする環境をいつも整えてくれました」

一方、中学受験を決めたのも母だったという。「僕がサッカーでケガをしたり、駄目になった時のことも考えて、大学まで続いている付属の中学に行かせてあげたいという親心だったんだと思います。でも、僕はサッカーのことしか考えていなかったから、塾で勉強はしなかったですね(苦笑)。今でもその時間、練習したかったって思うくらいですから」

驚くことに、柿谷は小学生の頃から両親に練習や試合の結果を伝えることはなかったというのだ。「両親はサッカー経験者ではないので『サッカーを頑張って親に褒めてもらいたい』と思ったことは1度もないんです。サッカーに関することは何も伝えず、自由にやってました」。やんちゃな印象がある柿谷ゆえ、両親は何かと大変だったのではないだろうか。「サッカーをやっている時以外は、そんなやんちゃじゃなかったと思います(笑)。ただ、手がかかる子だったとは思うので、母はよく我慢してくれたなって。中学の頃から、サッカーを続けさせてくれている両親に対して『プロになって恩返しがしたい』と思うようになりました」

香川と乾の存在は壁ではあったけれど、負けていると思ったことは一度もない

セレッソ大阪の下部組織でスター街道を走っていた柿谷だったが、プロになって初めて挫折を味わう。「今思うと、プロサッカー選手ということをわかってないまま、大人になる前にプロになってしまったなって。コミュニケーション能力もなく、練習にはギリギリの時間に行けばいい、今日はおもしろくないから適当にやればいいと思っていたり。結果を出していないのに、そんな気持ちでいたので、何も通用しなかったですね」

さらに、大きな壁となったのがチームメイトの香川真司と乾貴士の存在だった。「香川と乾は、これまでのサッカー人生の中で初めて『認めなあかん』と思えた二人。この二人がいたからこそ、人を認める、リスペクトすることが大事だということに気づけたと思います」。後にも先にも、この二人以上の衝撃を受けたことはないという。「香川と乾はすごいと感じたし、この二人がいたら試合に出られないと思いました。でも、負けていると思ったことはないですね」

プロにはなったものの出場機会に苦しみ、期限付きで徳島ヴォルティスへ。「三木隆司さんや倉貫一毅さん、濱田武さんらのサッカーに取り組む姿勢を見て、僕は遊びのままプロになっていると気づきました。サッカーに対する準備、サポーターやスポンサーに対しての接し方など、徳島での生活が勉強になり、今の自分を支える基盤になっています」。徳島で成長を遂げた柿谷は、セレッソ大阪に復帰。その後の活躍は前述の通りだ。

サッカーのことは口出しをせず、一歩下がって子どもを支えてほしい

 

「サッカーが楽しい。それがサッカーを続けている一番の醍醐味です。ボールを蹴る、止める、シュートするのはもちろん、一つのボールに20人でむらがるのがすごく楽しいんです。だからこそ、おもしろいプレーがでたら、つい笑ってしまう」と柿谷はいう。それ故、真面目にサッカーを楽しんでいるのに、時にふざけていると映ってしまうこともあるのだろう。「指導者に『真剣にやりなさい』と言われることは多々ありましたね。そんな中、厳しくもありながら、自由にさせてくれたのが、セレッソ大阪のジュニアユースのコーチたち。この出会いがあったからこそ、プロになれたと思います」

名古屋グランパスでも背番号「8」をつけ、さらなる活躍が期待される柿谷。「母の名は八重ですし、娘が8時8分に生まれたりと、僕は必然的に8に導かれたと思っています。グランパスでも8にこだわって頑張っていきたいです」。最後にサッカーを頑張る子どもたちとサカママへメッセージを残してくれた。

「今の時代、何でも調べることができるけれど、サッカーが好きなら、上手くなるための練習を自分で考えて取り組むことが大切だと思います。どんなサッカー選手になりたいか、どんなプレーがしたいかを考えて、自分なりの練習をしてほしいですね。

お母さんたちに伝えたいのは、結局、子どもはお母さんのことが好きだし、必ずお母さんのもとへ帰ってくるということ。だから、サッカーのことは口出しをせずに見守り、伸び伸びとさせてあげてほしいと思います。僕自身、年齢を重ね、娘ができたことで、お母さんってすごいと思うようになったので、子どもたちもいずれそう思うはずです。旦那さんの一歩前を歩き、子どものことは一歩下がって支えてあげてほしいなと思います(笑)」

写真提供/名古屋グランパス