「好きだから」を貫いた先に。中村敬斗、遠回りの物語
サカママ視点

「好きだから」を貫いた先に。中村敬斗、遠回りの物語

エリート街道より、サッカーが好きだという気持ち。その一途さを大切に歩んできた中村選手を、家族はそばで支え続けました。遠回りの先にあった景色を紹介します。

千葉・我孫子の少年が、世界の舞台でゴールを決めるまで

北中米ワールドカップ、初戦のオランダ戦。0-1で迎えた後半、左サイドからカットインした中村敬斗選手の右足が、日本に同点ゴールをもたらしました。強豪相手の値千金の一撃。しかし、ここへたどり着くまでの道のりは、決して平たんなものではありませんでした。強豪チームを自ら離れ、ヨーロッパを渡り歩き、厳しい評価を受けた時期もあります。しかし、その遠回りの一歩一歩が、今の中村選手をつくっているのです。

3歳から始まった、サッカーとの日々

中村選手がボールを蹴り始めたのは、3歳の頃。お兄さんの真似をして、横でボールを追いかけたのがきっかけだったといいます。自分からぐいぐい前に出るタイプの子ではなかったそうですが、5歳のときにテレビで観た2006年のドイツワールドカップが、サッカーにのめり込む転機となりました。世界の舞台で輝く選手たちを見て、「自分もいつかあの場所に立ちたい」と、プロになることを本気で思い描くようになったのです。

強豪を離れた小学6年生の決断

小学生時代、中村選手はJリーグクラブ・柏レイソルの育成組織でプレー。屈指の強豪チームながら、「パスサッカーが自分には合わない」と感じ、小学6年生のときに自らレイソルを離れる決断をします。戻ったのは、もともといた地元の少年団でした。

理由は「ツライから」「嫌だから」ではなく、「サッカーを好きでいたいから」。

自分を「頑固」と語る中村選手ですが、ブレない芯の強さは、この頃から育っていたのでしょう。

中学からは、個の技術を磨くことで知られる三菱養和SCへ。自宅から練習場までは電車で1時間以上かかる道のりを毎日通い続け、左サイドからのカットインという、今の武器を磨いていきました。

そばで支え続けた、両親の存在

その毎日を支えたのが両親でした。サカママで以前お話を伺ったとき、中村選手は子ども時代をこう振り返っています。

「母親とマンツーマンで練習して、父親は仕事から帰ってきた後はずっと練習を見てくれていました。振り返ると小学生の頃は、ずっと親と一緒にサッカーをしていましたね。中学、高校になっても駅まで車で送迎してくれて、トレーニングのために河川敷まで連れて行ってもらっていました」

高校卒業を待たず、飛び級でガンバ大阪とプロ契約を結び、初めての一人暮らしが始まります。そのとき、それまで当たり前のように受けていた支えのありがたさに、あらためて気づいたといいます。送り迎えも、毎日の食事も、見守るまなざしも。両親が丁寧に積み重ねてくれた時間が、中村選手の土台となっていたのでしょう。

世界の壁を乗り越えたその先に

プロになってからの道のりも、決して順風満帆ではありませんでした。オランダ、ベルギーと渡り歩くなかで思うように出場機会を得られず、メディアでは「欧州は早い」と囁かれた時期もあります。それでも中村選手は、腐ることなく努力を続けました。オーストリアのクラブで再び輝きを取り戻すと、フランス1部リーグでは日本人選手として初めて、1シーズン2桁得点を達成。遠回りの末に、世界へとたどり着いたのです。

初のワールドカップの大舞台初戦でゴール

そして迎えた、ワールドカップの大舞台。初戦のオランダ戦で貴重な同点ゴールを決めた中村選手は、イギリスの公共放送「BBC」によるマン・オブ・ザ・マッチ(試合最優秀選手)に選出されました。試合後、彼はFIFA公式のインタビューで両親に向けて感謝の言葉を残しています。

「ここに来るまで、一番支えてくれたのが両親です。試合後、W杯という夢の舞台でゴールを決められたことに、『自分のことにように嬉しい』と言ってくれました。直接だと照れくさいから言わなかったと思うけど(笑)、僕がゴールを決めた瞬間は泣いて喜んでいたと思います」

我が子の「好き」を信じて、全力でサポートを続けた両親。その献身が、一人の少年を世界の舞台へと押し上げました。W杯の活躍により世界中のクラブから高い評価を受ける中村選手。今後はより大きな舞台で、ゴールを重ねていくことでしょう。もし、次にピッチで躍動する中村選手を見たら、その裏にある長い道のりと、家族の積み重ねた時間を思い出してみてください。きっと、ゴールの見え方が変わるはずです。

写真/Getty Images